島村英紀『夕刊フジ』 2015年2月27日(金曜)。5面。コラムその91「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」

都会襲う「火災旋風」の恐怖
『夕刊フジ』公式ホームページでのタイトルは「都会襲う”火災旋風”の恐怖 超高層ビルが助長も…」

 3月10日は70年前に東京大空襲があった日だ。この空襲は米軍による市民への無差別爆撃で、一日だけで10万人以上が殺された。被災者は100万人にも達した。

 この爆撃(いまでいう空爆)では焼夷弾(しょういだん)という燃えやすい液体を詰めた爆弾を大量に落とした。このため東京の広い範囲で大火が燃えさかった。

 火事の規模がある程度以上になると「火災旋風」というものが起きる。火で暖められた空気が上空に上昇し、それを埋め合わせるためにまわりから風が吹き込んで火災をさらに大きくする現象だ。

 第二次世界大戦では日本各地だけではなく、ドイツにも米英軍によって大規模な無差別爆撃が行われた。ドイツのハンブルグやドレスデンなどの大都会で火災旋風が起きて、石造りの建物が多いのにそれぞれ何万人もの犠牲者を生んだ。

 じつはこの火災旋風は1945年の東京大空襲だけではなくて、地震でも起きたことがある。地震後に起きた火災旋風で10万人以上の命を失ったことがあるのだ。

 それは1923年に首都圏を襲った関東地震(マグニチュード(M)7.9)。当時の東京の人口は現在の東京都の6分の1しかなかったが、これだけの被害になってしまったのである。

 関東地震による死者の9割は火災による焼死だった。住宅地をなめつくした火事が日本最大の地震被害を生んだ。

 地震のあと、水道も電気も電話も止まっていた。消防車が走るべき道も崩れた瓦礫がふさいでいた。水道が止まったから、当時かなり普及していた消火栓も使えなかった。このため火は次々に燃え広がった。地震の翌日には、東京の中心部の多くは燃え尽きて、火はさらに周囲に拡がっていったのだった。

 とくに悲惨だったのは、逃げ場になる空き地が少なかった東京の下町の人たちだった。いまの東京都墨田区にあった被服廠(ひふくしょう)の跡地では火に追われて4万人もの人たちが集まってきたが、猛火はここも襲って、このうち33000人もの人たちが焼け死ぬ惨事になってしまった。

 いまここには横網(よこあみ)公園があり、東京都の震災祈念堂(右の写真)が建てられていて、慰霊堂があるほか、構内にある復興記念館には震災の遺品が展示されている。

 このときの火災旋風は自転車をはるか木の上まで巻き上げるほどの強さだったことが展示してある絵に描かれている。火災旋風の風速は秒速100メートルを超えるといわれている。

 関東地震は、近代的な都市がいかに地震に弱いかということを露呈してしまった地震であった。地震の揺れによる直接の被害よりも、地震によって起こされた火事などの二次的な災害のほうがずっと大きい被害を生むこともあることが、日本ではじめて分かったのだ。

 近年、また心配が増えた。都会に増えてきた超高層ビルは、ふだんからビル風を起こしたり、夜の海風をさえぎって熱帯夜を増やすなど人々を悩ませているが、火災旋風を助長する恐れもあるからだ。

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