島村英紀『夕刊フジ』 2020年3月13日(金曜)。4面。コラムその339「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」 

南海トラフの"先祖" 鶴岡八幡宮にも到達した14メートルの津波
『夕刊フジ』公式ホームページの題も同じ

 南海トラフ地震は海溝型地震だから繰り返す。それゆえ「先祖」が13回知られていた。

 だが、今年になってから、200もの「先祖」がいることが分かった。日本人が日本列島に住み着く前を調べる手段が研究されたのだ。フィリピン海プレートが日本列島に押しよせて来ることで繰り返しが生まれる。南海トラフ地震はそれほど繰り返してきた。

 この研究は深海底に残った地滑りのあとを数えたものだ。大地震があると、海底に地滑りが起きて「タービダイト」という地層が残る。海底の土砂が巻き上げられて再び積もってできた砂などの層だ。海底が浅ければ陸地で降った大雨で「タービダイト」が残されることもあるから、深海底だけが信頼性のある過去の大地震の記録になるのである。

 現場は遠州灘、静岡県西部沖の南海トラフ沿い。ここで海底掘削調査が行われ、過去4万〜5万年間に平均200年おきに巨大地震が起きたことが分かった。

 ところで、いままでに分かっている13回についても、昔のものは起きた場所や規模はあてにならないものがあった。

 当時は地震計はもちろんないし、被害のありさまを記録した古文書に頼らざるを得ない。関東地方には人が少なく、従って古文書も少ない昔のことはなかなか分からないのである。

 たとえば1605年に起きた慶長地震は、死者約5000人以上を生んだ大地震だが、いまだにどこで起きた地震かは確定されていない。南海トラフ地震の先祖ではなくて伊豆マリアナ海溝で起きた地震ではないかという学説さえもある。

 鎌倉時代というものがあった。1185〜1333年だった。武士が政権を獲得した時代で、鎌倉幕府が相模国鎌倉(現神奈川県)にあった時代だ。京都は依然として鎌倉以上の経済の中心地で朝廷や公家、寺社の勢力も強力だったが、本格的な武家政権による統治が始まった時代である。鎌倉時代以降、神奈川の古文書は急に増えた。

 昨年来、明応地震(1498年)、慶長地震、元禄地震(1703年)など過去の巨大地震の古文書を精査している。

 その結果、鎌倉市の津波の高さはこれまで最大5メートル程度とされてきたが、津波が大きかった明応地震や慶長地震のときには、鎌倉に最大14メートルが押し寄せていたことが分かった。浸水域は海岸から内陸に2キロ。鎌倉大仏、鎌倉駅を越え、鶴岡八幡宮まで到達したことも分かった。

 過去の文献などを探ると、鎌倉大仏はもともと大仏殿の中に収っていたが、明応地震による津波で大仏殿が流され、いまの裸の姿になったとされている。

 鎌倉の津波は大きく見直された。しかし鎌倉だけではない。藤沢市が従来の6メートル以上だったのを10メートル以上に、横浜・川崎市が1〜2メートルから4メートル、真鶴町を8メートル弱から9メートルに見直された。

 古文書がある近年の期間だけでも、大きな地震と津波が次々に明らかになっている。日本人が知らなかった「先祖」には、もっと大きなものがあったかも知れないのだ。

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