島村英紀『夕刊フジ』 2018年7月6日(金曜)。4面。コラムその255「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」 

群発地震から三宅島噴火18年 いまだ続く「予知」縄張り争い
「夕刊フジ」公式ホームページの題は「噴火「予知」の学問的レベルと役所の縄張り 群発地震から三宅島噴火18年」

 三宅島近海で群発地震が起きて、それが噴火につながったのは2000年の初夏。いまからちょうど18年前になる。

 三宅島は、それまでの500年間に13回の噴火が知られていて、17年から69年ごとに噴火を繰り返してきた。

 明治時代(1868年〜)以降だけでも噴火が5回あった。1940年には大きな噴火があり、火山弾や溶岩流で11名が死亡した。また1983年の噴火では人的な被害はなかったものの、約400棟もの住宅が埋没したり焼失した。また山林や耕地にも被害が大きかった。だが、それぞれの噴火は1〜2年で収まった。

 しかし、この2000年の噴火だけは長引いた。その年に全島避難になってから、避難指示がすべて解除されるまで15年もかかった。ただし避難指示の解除は居住地域だけで、火口付近では高濃度の二酸化硫黄が観測されていて、いまも立入禁止になったままだ。

 居住地域の全域が解除になったものの、島の人口3800人は3分の2になってしまった。しかも、帰島した人の4割は65歳以上の高齢者で、39歳以下の若い人たちは4〜5割、つまり半数以上が島に戻ってこなかったのだ。過疎を噴火が加速してしまったことになる。

 関東地方から南へ「東日本火山帯」が延びている。富士山や箱根もその一部だが、伊豆大島、三宅島、八丈島をはじめ、西之島新島など、多くの火山がこの火山帯に属している。

 火山の山頂部分だけが海上に顔を出している島は、どれも噴火があったら逃げ場がない。伊豆大島でも、1986年の噴火で全島避難が行われた。

 ところで三宅島の噴火では、噴火前後に火山性の地震活動が起きるのが普通だ。しかし地震が起きたからといって噴火の予知が出来たわけではなく、また地震の起きた場所と噴火する地点とは別のところになることがある。

 2000年の噴火でも、はじめは島内で始まった地震活動がしだいに三宅島の西方沖に移動して小規模な海底噴火に至った。その後、地震の震源はさらに西方沖へ移動し、新島から神津島にかけての近海で群発地震活動が続いた。この群発地震の最大の地震はマグニチュード(M)6.5、震度は6弱を記録した。

 このように震源が次第に遠ざかったのを見て、火山噴火予知連絡会は「三宅島では噴火はない」という安全宣言を出した。だが、宣言はまったく外れた。激しい噴火が島内の雄山(おやま)の山頂で起きてしまって、ついに全島避難に至ったのだ。当時もいまも、噴火予知の学問的なレベルはこの程度なのである。

 いや、噴火予知連ばかりではない。この群発地震を地震防災対策観測強化地域判定会(判定会)も、また地震予知連絡会も、噴火予知連とは別々に議論していた。

 判定会は噴火予知連と同じ気象庁にあるが、組織としては別のものだ。当時、地震予知連絡会は建設省国土地理院にあった。いまは国土交通省国土地理院になっている。そのどれもが、的確な見通しを出せなかった。

 役所の縄張りは、いささか滑稽なことだが、いまだに続いているのだ。

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