島村英紀『夕刊フジ』 2018年6月22日(金曜)。4面。コラムその253「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」 

半島ごと海に消えた村
「夕刊フジ」公式ホームページの題は「半島ごと“海に消えた”日本の村 淡路島の南端に近いところ… 」

 大阪府の北部で地震があって大きな被害を生んだ。近畿圏では地震がほとんどないという「迷信」が消えた。

 過去には、地震があって集落がまるごと消えてしまったことがある。

 淡路島の南端に近いところで、いまの兵庫・南あわじ市の灘地区と沼島の間にあった半島ごと、村がひとつ海に呑まれてしまった。

 この地震が起きたのは16世紀のはじめだった。それより古い地図には、この半島も、その上にあった「白石村」も描かれている。

 海上保安庁が戦後に行った水深調査では、海底地形が浅くなっていて、半島らしきものが沈んでいるとも解釈できる。

 地震があったのは、ある古地図によれば1500年だった。だが、その年に大地震が起きた記録はほかの古文書にはない。

 ひとつの可能性としては1498(明応7)年に起きた明応地震だ。この地震は、とてつもない津波を生んで、いまの三重県にあった日本三大港のひとつだった港町、安濃津(あんのつ)を襲って町全体の数千軒の家が跡形もなくさらわれた。以後200年間も復興しなかったことが知られている。

 この明応地震は恐れられている南海トラフ地震の先祖のひとつで、震源は静岡沖から四国沖まで広がっていた。三重県で大被害を生んだ津波は、淡路島でも大きな被害を生んだ可能性がある。

 もうひとつの可能性は1605(慶長9)年に起きた南海トラフ地震の「次の先祖」だ。ただ、いくらなんでも古文書が100年以上も間違えまい。

 じつは13回知られている「先祖」でも、一回ごとにちがう。たとえば一番最近に起きた東南海地震(1944年)と南海地震(1946年)は、二つあわせても「先祖」のなかでは小ぶりのものだった。

 他方1707年に起きた宝永地震は、東日本大震災(地震名としては東北地方太平洋沖地震)なみの巨大な地震だったことが分かっている。

 明応地震は、とくに津波が大きかった「先祖」として知られている。

 もうひとつの可能性もある。それは、淡路島南部には、中央構造線がちょうど通っていて、それがらみの直下型地震が起きたのではないかということだ。

 中央構造線はいまの長野県から瀬戸内海を通って鹿児島県に至る日本最長の活断層で、いままでたびたび直下型地震を起こしてきたことが知られている。いまから2年前に熊本で震度7を二回記録して、いまだに地震活動が続いている地震も、この中央構造線の真上にある。

 16世紀はじめの地震については古文書がちゃんと残っているわけではない。大きな直下型地震が中央構造線の淡路島の近くで起きて、この村が消えてしまった可能性も排除できないのだ。

 日本以外ではギリシャのサントリーニ島がかつての文明が盛んだった集落が紀元前17世紀に発生したミノア噴火で沈んだ。

 いまはかけらのような小さな島々だけになったことが知られている。

 地震や噴火は人々の平和な生活をいきなり破壊することがあるのだ。

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