島村英紀『地震学がよくわかる---誰も知らない地球のドラマ』の5章4節から

観測船の玉手箱

 海底地震を研究する私たちにとっての不幸は、不意打ちでやってくる。船に乗って海に出て、いざ実験というときに観測機械が故障する不幸だ。

 機械を船にのせる前には、もちろん万全の準備をして、テストも済ませた。しかし、肝心のときに思わざる故障が出てしまうことがあるのだ。じつは、船ではよく起きる「事件」なのである。故障の原因はいろいろ考えられる。港までトラックで運んで船に積み込むまでの振動。船の揺れやエンジンの振動。湿気が高く、塩分も多い船内の空気。

 もちろん、こういった故障が大学の実験室で起きた事件ならば、恐れることはない。修理の技術者を呼ぶことも、代わりの機械を用意することも出来る。

 ところが、海の上では困る。

 何ケ月も準備して、船を借りる算段もして、ようやく海へ来た努力。肝心の観測の機械が動かなければ、すべてが水の泡である。かつて留年を余儀なくされた大学院生もいた。人生を棒に振ったのである。

 追い詰められて、やむをえず、船の上で機械を分解することが多い。こうなったら、ほかの観測はそっちのけである。何人もかかって、机くらいの大きさの機械をネジ一本までバラバラにして、ようやく修理したこともある。丸二日かかった。

 こうして機械をようやく動かすことが出来た喜びは、なにものにも代えがたい。

 ところで、観測機械の分解修理はいつも成功するとは限らない。いちばん口惜しいことは、悪い部品がわかり、取替えれば直るというのに、肝心の部品がないことである。歯車の歯が欠けていた、バネが折れていた、半導体が死んでいた、といったたぐいである。

 血眼になって船じゅうを探す。船の機関室や無線室に潜り込んでスペアパーツを漁る。もちろん、もし見つからなければ、わざわざ海にきた甲斐がなくなってしまう。大いなる人生の無駄を噛みしめることになるからである。

 ある高名な先生は、電源のコードが欲しいばかりに、私たちのオシロスコープに付いていた電源コードをちょん切って持っていってしまった。猫に鰹節。たとえ他人が使っているものでも、見境がなくなってしまう。もちろん、以後、オシロスコープはもう使えない。

 しかし、お誂えむきの部品が、船で手に入ることは滅多にない。

 浅沼俊夫さん。40年近くも船に乗り乗り続けてきたベテランの地球物理学者である。研究のために何日船に乗ったかを数えていたが、1500日を超えたら、数えるのが面倒になったという。船が走った距離は、地球を16周にもなる。日本でいちばん多く船に乗った地球物理学者であろう。

 船に乗るときに、浅沼さんは古めかしい巨大なトランクを持ち込んでくる。永年使われてきて、オンボロで傷だらけ、でこぼこになったアルミのトランクである。

 トランクの中身は、コイル。トランス。抵抗。コンデンサー。ネジ。バネ。歯車。新品もあるが、油じみた中古のものも多い。普通の人には、どう見てもガラクタにしか思えないものばかりである。これら電気や機械の部品が、トランクいっぱいに詰まっているのである。

 しかしこの「ガラクタ」が、船の上で、何回、研究のピンチを救ったか数知れない。浅沼さんたちの専門である反射法の地震探査はもちろん、私たちの海底地震計も、この「ガラクタ」に救われたことがある。

 何がどれだけはいっているのか、浅沼さんしか知らない古ぼけたトランク。これは、船に乗る地球物理学者にとっての「玉手箱」なのである。

 船に乗るときには、私たちもそれなりに努力して予備の部品類を持ち込んではいる。ところが故障もさるもの、私たちの裏をかくように起きる。その意味では、浅沼さんは年季が違う。不思議なことだが、私たちが持っていなくて、彼のトランクに入っているものこそが、よく必要になるのである。

 じつは、浅沼さんの年季は、地球物理学者になる以前からのものである。山本有三の『心に太陽を持て』に登場する「ミヤケ島の少年」こそが、三宅島の高校生だった浅沼さんのかつての姿なのである。科学少年、浅沼さんは三宅島の火山の噴火口に登っては、学校から借りた温度計で噴気の温度を測り、噴煙の状態を丁寧にノートに記していた。誰に頼まれたわけでもない自発的な観察であった。

 その後1951年になって異変が起きた。井戸水が枯れ、山の木が次々に死んでいった。島の住民は噴火の恐れにおののいた。三宅島は、深海底から立ち上がっている火山の八合目から上だけが海面上に出ている島だ。大噴火があったらどこにも逃げ場がない。11年前、1940年の大噴火のことが人々の頭をよぎった。そのときの噴火では、死者11、家屋の被害は62戸に達したほか、山林や耕地にも被害が出た。

 この三宅島は2000年の夏にも噴火があり、その後有毒な火山ガスが出続けたために、全島民の避難が2年を超えている(この文章の執筆時)

 同じように逃げ場がない火山島、鳥島でかつて惨劇が起きたことがある。鳥島は三宅島や八丈島よりもっと南にある絶海の孤島だが、あるとき噴火した。船が救助に向かったが間に合わず、島民全員が亡くなっているのが見つかった。1902年のことだ。三宅島も、鳥島とよく似た危険な島なのだ。

 1951年の三宅島の異変のときに、東京から調査に来た気象庁(当時は中央気象台と言った)の職員の判断にいちばん役立ったのは、それまでの火山の動静、つまり浅沼少年が何年もつけ続けていたノートだった。幸い、このときは三宅島は噴火しなかった。異変は通常の範囲だったのである。少年のノートは島を救った。

 やがて浅沼少年は高校卒業後、東京の国立科学博物館に就職、働きながら夜間の大学を出て学者になった。その後千葉大学理学部地学教室に勤め、1996年に定年退職した。

 浅沼さんが島に暮らしてきた「海の民」の才能をキラリと見せてくれたことがある。観測船の船べりで仕事をしていて、浅沼さんは眼鏡を海に落とした。

 眼鏡はどんどん沈んでいく。このとき浅沼さんは、いきなり海に飛び込んで水中に潜り、眼鏡を取って帰ってきたのである。私にはとうてい出来ることではない。

 1989年の秋、三宅島高校は40周年を迎えて記念式典を行った。目立つことが大嫌いな浅沼さんがこの高校の第一期生として記念講演をしたのは、校長のたっての依頼があってのことだった。

 講演の題は「自然を知るむつかしさ」。どんな地球物理学者もかなわない経験を持ちながら、いつも控え目な、いかにも浅沼さんらしいテーマであった。

(イラストは、イラストレーターの奈和浩子さん
島村英紀『地震学がよくわかる---誰も知らない地球のドラマ』のために描いてくださったものです)。

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