私たちが作った、学生のための総合オピニオン雑誌『大学論叢』(だいがくろんそう)

左は2号の表紙。1号はデザインは同じで色違いの深緑だった。右はデザインを変えた3号の表紙。

企画。編集。表紙。すべてを私たち数人のグループでやった。 この雑誌の発行は「東京大学学生問題研究会」。この雑誌を作るために、東大新聞の編集長だった池田信一、駒場新聞を出て合流して来た小塚直正と高木 信、元五月祭(東大の大学祭)委員長だった川戸康暢らとともに作った学生団体であった。

私が大学3年のときの1963年5月に第一号を船出させた。しかし残念ながら、右の第三号(1964年春に発行)で廃刊になり「三号雑誌」に終わった。

『大学論叢』の目次と、第1号の記事「大学の町・本郷」。目次には、いまから見れば青臭い企画が並んでいるが、当時の学生の問題意識を推察してくだされば幸いである。

なおこの記事「大学の町・本郷」は無署名だが、編集部の小塚直正が書いたものだ。手書きの地図は、島村英紀が足で歩いて描いたものだった。いまとなっては、町並みの資料的な価値がある。

(なお目次と記事は544KBあるpdfファイルです。申し訳ありませんが、ミラーサーバーによってはpdfファイルを扱えないものがあります。ホームページ目次に戻って、他のミラーサーバーをお試しください)

なお、表紙のデザインやレイアウトは島村英紀がやった。

下の写真は、その学生雑誌をつくるための資金稼ぎにアルバイトをしていた小学館初の女性週刊誌『女性セブン』のテスト版。市販はされない、発刊前の雑誌だ。162頁。発行は昭和38年(1963年)○月○日とある。


『大学論叢』創刊号に載った「読者の投稿」
 まぼろしの雑誌
      副田宗夫(東京大学人文系大学院修士課程=哲学)

 いまだ世に出ざる雑誌についての感想を書くのはむずかしい。

  しかしこの雑誌の編集部のだれかかれかと、週に一度は大学付近の喫茶店などでバッタリ顔を合わすことの多いぼくは、もうこの雑誌を何号も続けて愛読しつづけてきたような気がするのだ。

  半年以上も前から彼らは、この雑誌に載るはずの原稿や記事の内容をいかにも楽しそうに、しかし時としては悲しみの言葉で語りつづけ、それはとても一冊や二冊の雑誌の紙幅にはもりこめるはずがない量なのであった。つまり彼らは、逢うたびごとに異なった怒りと悲しみと喜びを抱えており、それが矢継ぎ早に彼らの口からほとばしり出るのだ。

 それは暑い夏の陽光がふいにカゲっておびただしい量の雨滴が大地にたたきつけられている、そのまっただ中で、自分の顔を天に向けて突き出し、雨滴の打つにまかせているような思いをぼくにしばしば抱かせた。

 考えてみれば彼らとはもう四年越しのつきあいである。

  あるものは学生運動を、あるものはサークル活動を、ある者は学生新聞の編集を、またある者はせいいっぱい勉強をつづけてきて、同じ大学という風土の中でまるで違った生き方をしてきたのに、いま彼らが一人一人違った指向を示しつつ一冊の雑誌を出すということに、ぼくは、彼らの体臭と可能性としかも一抹の危惧を感じる。

  「一年と期限を限ってやってみる」と一人の彼らはいう。「バカな、石の上にも三年っていうことを知らねぇのか」ともう一人の彼らは応ずる。「創刊号出ました、ハイソレマデヨ」とさらに一人の彼らはまぜっかえす。

 しかし所詮、そんなことはどうだっていいのサってことを、彼らはちゃんと心得ているはずだ。

 s つまり彼らにとって「雑誌」はもう何年も前から存在したのだし、これからも存在しつづけることは、これはもう紙に活字の字面が印刷された雑誌が一号しか出なくとも二号しか出されなくとも、そんなこととはまるで関係のないことなのだから。

註)2009年現在、70歳を優に超えた副田さんは、東京・北区でお元気で暮らしていらっしゃいます。毎朝4時に起床して、すぐ、エラスムスを読む、という、さすが哲学科ご出身という生活を続けておられます。この文章を半世紀ぶりに見て「変な文章に再会して、気恥ずかしさでいっぱいです。釈迦もナザレのイエスも文章を書こうとしなかった気持ち、つまり文章を残さなかった意味がよくわかった気がしました」と謙虚におっしゃっておられます。


『大学論叢』第二号に載った「読者の投稿」
 「学テ」以後の仲間たち
     柏 陽太郎(北海道立留萌高校教諭)

 
 最近、ライオンの夢をたてつづけに見た。爪を抜かれた二頭のライオンにはさまれ、なぜか私は涙を流しており、限りなく不幸であった。

  いつも私はうなされ、汗みどろになって目覚める。「百獣の王」からの連想は威勢のよいものであってしかるべきなのだが、目覚めたあとの苦しさと虚脱感は、いったい、なにに由来するのであろうか。

 考えてみると、ライオンにまつわる夢を最初に見たのは、一昨年の文部省実施学力テスト直後であった。

 その頃私は積丹半島の山の中、生徒数二十名足らずの小中学校に勤務していたが、校長をまじえた北教組支部執行委員会の裏切りのために、学テ闘争は円満実施という経験をした。

 勤評闘争を経験していない北海道の教職員にとって、学テは表面に現れた激しさもさることながら、個人個人の内面に深く食い込んだ事件であった。

  したがって、この闘争の敗北は、しかも戦うことなき妥協は、良心的な教師に傷痕を残し、さらに運動に対する虚無感をもたらしたのであった。

  このときのライオンは、唸り声をあげて迫ってくるだけであったが、以来、二度目の学テ、教頭管理職、能研テストとたてつづけに強行される権力側の攻撃と、戦うことなく敗北を重ね、たてがみをふるわせて襲いかかる猛獣は、悲しい面持ちで私にすり寄ってくるのである。

  学生時代、あるいは卒業直後、「時代変革」を直截に信じた私たちは、いま、もっとも流れの澱んでいるところで佇んでいる。砂川基地闘争で行動の哲学を知り、安保で革命を信じた青年教師たち、その多くは学テ以後、自己の中に沈潜しているのだ。

  農業大学を出た男は草を蒐め、虫をとって歩く。抒情の再発見などと口走りながら詩を書く男。机上に軍隊毛布をひろげ、筆がわりに素手を使って「前衛」を考える男・・。

  私を含めて、私のまわりにいる「学」テ以後の仲間たち。「大学論叢」を見て、私は仲間たちと表現の場を持ちたいと思った。私たちは、行動の前に「生の深淵」を覗こうとし愛の存在を実証したいと考えるところから、もう一度出発しようと試みているのだ。

註)2009年現在、70歳を超えた柏さんは、札幌市でお元気で暮らしていらっしゃいます。市民の出資で作った風力発電の会で活躍しておられます。

島村英紀ホームページ目次に戻る
島村英紀の恩師と友人たち



inserted by FC2 system