島村英紀が撮っていた歴史的な写真・その1・1970年代半ばまで

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1-1:1963年4月。東京・千代田区大手町。当時の気象庁屋上から東を撮った新設工事中の首都高速道路(神田橋インター付近)

当時、気象庁は現在の竹橋会館(現在の気象庁から道を渡った北西側。公務員共済組合連合会, 別名KKR東京)のある場所に本拠があり、この写真下方に写っている敷地にも、平屋や2階建ての、いくつかの建物があった。

こちらの敷地に現在の本拠である8階建ての気象庁の新築が始まっていた。

工事中の首都高速道路の後方には
、池袋から水道橋を通って数寄屋橋に行っていた17番の都電が見える。元の写真では、高速道路の橋梁に川崎重工と書いてあるのが読みとれる。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mmf2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)


1-2:2004年3月の同じ地点での写真。

首都高速道路は、毎日慢性的に渋滞が続いている。上の写真に見える都電は、とっくの昔に撤去されてしまった。いまでも欧州の多くの都市では排気ガスを出さない市電が市民の足になっているというのに、都電を廃止してしまったのは失政であろう。

驚くべきことに、気象庁の構内、高速道路の下にある二階屋の古ぼけた切妻屋根の倉庫2棟は、外壁の色こそ白が灰色になってしまったが、そのまま残っている。

この倉庫は、昭和初期の建物配置図にはすでに倉庫として描かれているから、上の写真の撮影当時よりもずっと古いものだろう。一時、床屋が入っていたという説もあるが、さだかではない。(この考証には檜皮久義さんのお世話になった)。

(撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは36mm相当、F4.0, 1/320s)

この付近の現在の地図は



1-3:2009年1月の同じ地点での写真。

かつては神田川が水の流れを運んでいた。いまは、その神田川の上に作られた首都高速道路が、夜も絶えない車の流れを運んでいる。私たちは便利さと引き換えに、なにを失ったのだろう。

気象庁(右下の8階建てのビル)も、上の写真にある倉庫は残っているものの、後ろに出来た高層ビルの谷間に、すっかり埋まってしまっている。また、後方にも高いビルや塔が増えて、東京の空は、一層狭くなってしまった。

(撮影機材はPanasonic DMC-FZ20+wide adaptor。レンズは27mm相当、F2.8, 1/5s)


1-4:1963年4月。当時の気象庁屋上から南南東を撮ったお堀と都心方面

当時、気象庁は現在の竹橋会館(現在の気象庁から道を渡った北西側)のある場所(当時は竹平町だった)に本拠があり、そちらの屋上から撮った。地上気象観測には不可欠の露場(百葉箱などが置いてある広い芝生)が広がっていた。

気温を測っていた芝生は、いまはなくなってしまって、下の1-6の写真のように、茶色い中高層のビルになってしまっている。つまり、厳密に言えば、東京の気温は、同じところで測りつづけているのではない。

このビルは、国家公務員共済組合連合会の東京共済会館(竹橋会館)である。皇居を見下ろす一等地だけに、国から国の外郭団体へ払い下げたのであろう。

右上に出来たばかりの東京タワーが見える。

元の写真では走っている車が見分けられる。例えば、右端はいすず自動車がノックダウンで組み立てていた、ヒルマン・ミンクス(英国車)

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mmf2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)


1-5:1963年4月。当時の気象庁屋上から南を撮ったお堀と都心方面

前の写真より左に振った写真。左端にわずかに建築用の足場が見えているのが、道より左側の大手町側に新築中の気象庁の8階建て。

つまり現在の気象庁は築40年になる。当時の耐震建築基準は現在よりずっと甘かったから、今後の大地震に耐えるのだろうか。

隣の東京消防庁をはじめ、お堀端のほとんどの建物は、現在は建て替えられた(下の1-6)。中央のパレスホテルだけは今と同じ(*)である。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mmf2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)

この写真は島村英紀『地球環境のしくみ』(さ・え・ら書房)に、ヒートアイランドの見本として掲載しました)

そして2009年の1月。上の写真の百葉箱のところに建った建物の11階から見た、同じ景色。パレスホテル
(最上部に横一線の光の帯がある.*)が、いちばん低いビルになってしまって、右端の東京タワーまで、高層ビルが連なってしまった。

(撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは40mm相当、F2.8, 1/4s)

【*:追記】(2000年1月31日 読売新聞から)
皇居ほとりのパレスホテル、3年間の休館に

 半世紀近い歴史が刻まれたパレスホテル(東京・丸の内)が建物を新築することになり、31日にチェックインした宿泊客の接客を最後に、2月1日から約3年間の休館に入る。

 1961年10月、皇居のほとりにオープン。日本初となるソムリエ常駐の本格フランス料理レストランも話題を呼び、延べ約750万人が宿泊した。2012年春、地上23階、地下4階の高層ホテルが誕生する予定。


1-6:2008年3月。いまの大手町はこんなに変わってしまいました。でも、「東京の気温」はここで測り続けています

上の1-5の写真の右手から、気象庁を撮った、2008年8月の写真。上の写真の芝生はとっくに姿を消して、いまは写真中央左手の茶色のビル(国家公務員共済の竹橋会館)に変わってしまった。

気象庁は上の1-5の写真の直後の1960年代に建て替えられて中央の灰色の8階建てになっている。写真は、上の1-5の写真の右手から気象庁に向かって撮ったものだ。

(中央やや右寄りの橋の向こうに見える)気象庁の灰色のビルの左が竹橋会館、その左のビルは丸紅本社ビル、さらに左は毎日新聞とリーダースダイジェストの共同ビルである。気象庁の右の白いビルは東京消防庁の本部ビル、そのさらに右の高いビルは、三井物産の本社ビルである。

このあたりでは写真に見られるように、 いまでも、三井物産ビルよりもさらに高い高層ビルの建築がつぎつぎに進んでいる。かつては抜きんでて高かった気象庁の右にある東京消防庁の白いビルも、いまや、この辺のビルとしては低い方になってしまった。

ここで測り続けているのが「東京の気温」だが、こんなにビルに取り巻かれ、道は自動車にあふれ、地下には5本もの地下鉄路線が通ってしまったいま、測っているのは典型的なヒートアイランドの気温でしかない。

つまり、昔の気温とくらべることは、不可能になってしまった。

つまり、昔の気温とくらべることは、不可能になってしまった。

右の写真は、上の1-5の写真の先方(中央に写っているパレスホテルのほう)から逆に気象庁を見たところ。灰色の気象庁のビルは、中央左に、小さく見えている。

その右手の白い、頑丈そうなビルは、東京消防庁で、地震には、こちらのほうが、築40年の気象庁よりはずっと強そうだ。

右端の茶色いビルは、カルガモが子供を連れて道を渡ってお堀まで行進するので有名な三井物産のビル。このときは、交通量の多い、この道は交通遮断になる。これだけ壊してしまった自然を、しかし大事にしている、というポーズのためのセレモニーだ。


【追記】 その後、2008年9月に、気象庁は千代田区大手町の庁舎敷地内にある観測場所(測定している芝生のことを露場(ろじょう)という)を2013年度に皇居外苑の北の丸公園内に移転すると発表した。

気象庁は2013度に港区虎ノ門へ移転することがきまっているが、現在の露場での観測は戦前から(上の写真のように、厳密に言えば1964年から道をはさんだ南側に移動した)行われているから、1964年からだけでも49年ぶりの移転になる。

この大手町はアメダスで「東京」と表示される地点で、気温、湿度、雨量、積雪、気圧を観測している。

北の丸公園の新しい露場は新庁舎とは約3km離れてしまうことになるが、「東京」の露場は120年間以上にわたって大手町や皇居周辺にあり、同庁は「気候変化の監視を続けるには、同一地域で行うのが望ましい」との判断だった。

上の写真は2012年12月に、西新宿にある東京都庁の45階から望遠レンズで撮った気象庁界隈。左1/3くらいのところ下方にある(灰色で屋上に白いものがある)のが気象庁の8階建てのビルだ。このように高いビルに取り囲まれてしまえば、風速や風向はもちろん、気温も、そして日照時間さえ無茶苦茶なってしまうのが、写真を見れば、明かだろう。 なお、都庁から気象庁までは 6.5 km ある。

(撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。上の写真はレンズは60mm相当、F4.6, 1/640s、中の写真はレンズは36mm相当、F4.0, 1/500s。下の写真はDMC-G2、500mm相当)


1-7:1963年4月。当時の気象庁屋上から西北を撮った神保町方面

当時、高速道路が新設中だった。竹橋ジャンクションの工事が手前で行われている。

奥の一橋講堂(如水会館)が、当時としては背の高い建物として目立っている。いまは高層ビルに建て替えられている。

その後方は共立女子大の付属中学と高校。現在の小学館ビルのような大きなビルはひとつもない。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mmf2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)


1-8:1963年4月。当時の気象庁屋上から西南西を撮ったお堀と竹橋方面

当時、気象庁は現在の竹橋会館(現在の気象庁から道を渡った北西側)のある場所に本拠があり、そちらの屋上から撮った。手前にあるのは気象庁の無線アンテナ群。通信は多くを無線に頼っていて、無線の資格を持った職員も多かった。

現在の毎日新聞ビルも近代美術館も、何もなかったので空が広い。

遠くには新宿区四谷にあった当時の日本テレビのテレビ塔がそびえている。高層ビルは、こちらの方面には一つもなかったから、このテレビ塔で関東全域をカバー出来た。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mmf2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)


1-9:1971年9月。取り壊される寸前の気象庁旧庁舎(屋上から上の数枚の写真を撮った建物)

気象庁は、この古い建物から、手前の道を挟んだ反対側の新庁舎に移転した。いちばん高い建物は風力塔と言われており、大時計がついていた。この風力塔は、1921年に作られたものだったが、50年後の1971年12月に取り壊された。

1933年に刊行された小泉癸巳男(1893 - 1945。こいずみきしお)の「昭和大東京百図絵」 の第41景にも、この風力塔とアンテナが描かれている絵「中央気象台」がある。

いま、ここは1-6の写真のように、庭や芝生部分も含めて、全部が公務員共済の竹橋会館になっている。

風力塔の手前のやや大きな建物には予報部が入っていた。

1971年当時には、首都高速道路は開通して2年目だったが、今に比べて、交通量はごく少なかった。

気象庁は建物よりもはるかに高い電波塔を持っていた。当時は電波で全国の気象データを集めていたので、気象庁は多くの無線技師を雇っていたが、彼らのほとんどは無線の技術を生かせない職場に替わらされてしまった。

この道を先に行くと、小川町、お茶の水駅を通って本郷に達する。この道の右側に見える芝生は1-4にあった露場を移転したものだ。ここで、2009年現在に至るまで「東京の気温」が測られているのである。

撮影機材はOlympusPen-FV。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはハーフサイズ。サクラクローム。褪色していたのを補正したが、尖鋭度が下がってしまっている。【2020年9月に追記】右の写真は気象庁OBの檜皮久義さんからいただいた『気象100年史・資料編』から、1955年頃の中央気象台(いまの気象庁)全景。高速道路はまだ、なくて川がある。)
 

2-1:1963年3月。当時のTBS社屋屋上から北東を撮った国会議事堂方面

TBSは当時も、今と同じ東京都・港区赤坂にあった。前方左は日枝神社。外堀通りの向こう側にある神社だが、当時は外堀通り沿いに高いビルはなかったので、よく見えた。その左が赤坂見附になる。

手前はほとんど1-2階建ての木造で瓦屋根の民家だった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはサクラ・コニパンSS)

この付近の現在の地図は


2-2:1952年の東京・池袋東口。巣鴨プリズンがよく見えた。

池袋の西武百貨店屋上から北東方向を撮った。当時は都電の17番線がここを始発として、水道橋や神田を通って(上の1-1)東京駅八重洲口、さらに数寄屋橋まで行っていた。その都電が写真中央部(黒煙を吐き出している煙突の少し右)に小さく写っている。

その煙突の先に見える、白くて横に大きく拡がっている建物は巣鴨プリズンである。第二次世界大戦が1945年に終わり、戦犯とされた旧軍人や政治家が収容されていたところだ。いまは、高層ビル、池袋サンシャインになっている。

(撮影機材はSamoca 35。レンズはトリプレットのEzmar 50mmf3.5。当時の最高峰レンズ、ライカのelmarに似た名前を付けているのが哀しい。フィルムはフジ・ネオパンSS)

1960年の池袋の写真はこちらにも

この付近の現在の地図は


2-3:1960年8月。東京・池袋東口。都電の終点だった。

池袋の西武百貨店屋上から南東方向、つまり護国寺方面を撮った。当時は都電の17番線がここを始発として、水道橋や神田を通って(上の1-1)東京駅八重洲口、さらに数寄屋橋まで行っていた。

始発駅だから、都電は3台が見える。道を走る車は、まだ、ごく少ない。首都高速道路はまだ、影も形もなかった。

5-6階を超える建物はほとんどない。西武百貨店は、まわりを見渡すのにはいちばんいい場所だった。

赤外線に感光する赤外フィルムを使っているので、遠くの景色は鮮明だが、木の葉が白くなっている。 また、日向と日陰で、普通の写真と違って、コントラストがつきすぎている。

撮影機材はRicohflex-Y。レンズはRicoh Anastigmat 80mmf3.5。3枚構成の「トリプレット」タイプのレンズ。フィルムはサクラ・赤外フィルム。R1の赤フィルター使用)

1960年の池袋の写真はこちらにも

この付近の現在の地図は


2-4:1963年3月。東京駅八重洲口

東京駅の八重洲口も、また雑然としていた。1964年に開通した新幹線のために大わらわで工事中だった。

左手にガスリンスタンドがあり、右手には大丸デパートや、ホテルも入っていた八重洲会館が、当時としては有数の高層ビルとして、そびえていた。湘南電車が止まっている線路の向こうには丸の内側の東京駅が見えている。写真右端の石造りのビルは、なんとも古い。

駅前の通りは、当時としては、とてつもなく広い道で、交通量も少なかった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはサクラ・コニパンSS)


2-5:2004年、2009年そして2012年。ますます空が狭くなる東京駅八重洲口

東京駅の八重洲口の前の広場は、とても小さくなってしまった。大丸デパートが入っている駅ビルがせり出してきたせいである。撮影したのは2004年8月。

2004年には、この位置の八重洲口からは鉄道が見えなくなってしまっている。そして見えるのは、狭い発着場を取り合っているように慌ただしく発着している中・遠距離バスだけになった。

とくに、ここから筑波研究学園都市に行くバスは、10分おきの発車にもかかわらず、いつも満席で、積み残しが出るほどだった。

乗っているのは、ほとんどが中年の男。それも目立たない背広を着てネクタイを付けた、学園都市から都内に仕事で慌ただしい往復を繰り返している科学者やお役人たちばかりだった。

バスの中では、みな、むっつり押し黙っているのも、異様な風景である。2005年8月に秋葉原からつくばに行く鉄道、つくばエクスプレスが開業してからは、この混雑は消えた。

上の写真とこの写真は、カメラの俯角こそ違え、ほぼ同じ場所から、同じ画角のレンズで撮っている。つまり、ビルが、画角をはみ出すほど大きくなってしまったのである。

当時としてはいちばんの高層ビルであった上の写真の八重洲会館のビルも建て直している、また空が狭くなる。

そして2009年、八重洲会館のビルが写真のように建て替えられて、八重洲口の空は、また一段と狭くなってしまった。上2枚の写真を撮った35mmレンズではおさまりきれなくなって、28mmレンズ(相当)で撮ったのが、この2009年12月の写真だ。

上の写真の真ん中にあった大丸デパートのビルは取り壊されて、デパートは後ろの高層ビルに入居した。

写真左手に見える新幹線の駅も、ごく低いものになってしまった。その向こうには、丸の内側に建った高層ビルがいくつも聳えている。

そして、上の写真のわずか3年後の2012年9月。右の写真のように、八重洲口には巨大なクレーンが林立して、すべてが工事中の様相になっていた。

この写真は上の1963年に撮った写真と、ほとんど同じ視点から撮っている。それゆえ、中央左側に茶色い旧東京駅(丸の内口)の頭だけが見えている。

しかし、じつは、この「頭」は、2012年になってから、戦前の東京駅の形に戻すために、戦災で破壊されて撤去されていた3階部分を復元して高くしたものだ。つまり、1963年段階の2階建てだったら、「頭」は隠れて見えなくなっていたところなのだ。

そして、この写真の左右も、高いビルに遮られている。1963年の、のびやかな風景は、どこにもなくなった。

かつてあった八重洲口前の広場は、年ごとに狭くなり、いまは鉄骨の林に化している。

東京は、どこまで空が狭くなるのだろう。日陰の道を、ビル風という風害にさらされながら歩くサラリーマンは惨めである。

(上の写真の撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは36mm相当、F2.8, 1/125s、ISO50。中の写真の撮影機材はRicoh Caplio R1。レンズは28mm相当、F5.4, 1/810s、ISO100。下の写真の撮影機材はPanasonic DMC-G2。レンズは28mm相当、F3.5, 1/1000s、ISO100)

この付近の現在の地図は

3-1:1963年4月当時の東京大学・安田講堂前

当時、審議中だった大学管理法に学生たちが反対して、安田講堂前にテントを張って座り込み闘争を行っていた。左後方は工学部。

タテカンこと「立て看板」は学生たちが世に訴えるありふれた手段で、特有の字体とともに当時の先端のファッションだったが、いまはどの大学でも、ほとんど消えてしまった。

安田講堂の前の広場のコンクリートも、その後撤去され、学生運動対策で植え込みが作られたが、いまは、そんな「大学側の心配」は無用になった。

なんと、いまの安田講堂は、東大の教官の数々の不祥事を釈明し謝罪する場に成り下がってしまったのである。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)


3-2:1965年1月当時の東京大学・理学部地球物理学教室(文京区弥生町)

私が1964年に大学を卒業して大学院生として机を置いたのは、左側の木造瓦葺き平屋の建物だった。当時の松澤武雄教授の部屋に入れて貰った。浅田敏氏は助教授、佐藤良輔氏は助手だった。

右側は講義室などがあった木造二階建て。この二つの建物が地球物理学教室のすべてだった。平屋建ての手前側にはまるでバラックのような赤錆びて貧しいトタン屋根がある。

向こうに見えるのは医学部の建物と煙突。その間には、(いまでもそうだが)普通の民家がある。

その後、1971年9月に取り壊したときには私も手伝ったが、大量のホコリの中から関東大震災(1923年)当時に撮影された膨大なガラス乾板(写真フィルムの前身)が見つかり、科学博物館に寄贈した。誰が撮影したものかは分からない。かつてこの教室の先輩だった大森房吉や今村明恒の遺品も多く見つかった。

なお、大森房吉が使っていた木造の机は、その後引き継がれて、浅田敏氏が定年になるまで使われていた。 取り壊し時には、また、(もちろん放置されていたのは違法だったろうが)人工地震に使うはずの雷管までが見つかった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはサクラクローム。褪色していたのを補正したが、カラーバランスが崩れてしまっている)


3-3:1972年5月。北海道大学構内。

私が北海道大学への転勤が決まって初めて見た北海道。「田植援農」という言葉は東京の学生運動にはなかった。


クラーク博士像のある広場。いまはロータリーが作られている。向こうには煉瓦造りの理学部本館がある。いま本館は北海道大学博物館になっている。

撮影機材はOlympusPen-FV。レンズはZuiko 25mm f4。フィルムはハーフサイズ。フジクローム。内式フィルムなので色褪せしたのを補正した)

この付近の現在の地図は


3-4:1977年秋。京都大学構内。

北海道大学の学生運動が「田植援農」しているとき、札幌郊外の長沼にナイキというロケット兵器の基地が出来ることに反対してデモをした当時の学生は、畑の畝を歩きながら、どうみても村祭りのようだと感じたという。のどかな農園に激しいデモは似合わない。

それにくらべて、京都大学の学生運動には、都会の大学の緊迫感があった。学長や評議員を京大から追い出したのであろうか。学生運動の「レベル」も尖鋭さも違っていた。

立て看板(立看)だけではなくて、後ろの時計台にも、建物の最上階にも、至る所、過激な文字が踊っている。反権力、反中央が脈々と続いている関西の伝統の、ひとつの表現方法なのであろう。

【2017年12月に追記】1981年秋、京大の理学部にも、まだ、巨大な立看が正門を入ったところに立っていた。椅子はもちろん、大学内部から持ちだしたものだ。大学側が立てた「車両交通規制」の看板が小さくて肩をすぼめているように見える。

これは京大の伝統であろう。なお、2017年秋になって、京都市が市の景観条例に違反するとして、この種の京大の立看を規制すると言いだし、京大が反発する騒ぎになっている。


(上の写真は撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダック Tri-X pan ISO (ASA) 400。下の写真のフィルムは Kodak 5035 カラーネガ、
ISO 100


4-1:1957年当時の練馬区東大泉にあった東京学芸大学大泉分校(私の小学校は同じ敷地にあった)

私が1948年に入学したときは(学芸大学はまだ、東京第三師範学校と言ったので、)小学校の名前も東京第三師範附属大泉小学校だった。入学後間もなく、親大学が名前を替えたので、東京学芸大学付属大泉小学校に名前が替わった。

学校の建物は戦前からの木造二階建てのもので、戦時中は兵舎にも使われた。学校があったのは西武池袋線の大泉学園駅から南へ5分ほど歩いたところだが、当時はまわりは一面の畑で、構内にはヒマラヤスギが多かった。

その後、大学は小金井の本校と統合されて小金井に移ったので、今はここにはない。

駐車しているのはオースチンA50。もともとは英国車だが、1955年から1960年まで、日産自動車がノックダウン組み立てをしていた。

この組み立てで多くを学んだ日産は、1960年に初代ブルーバードを出すことが出来た。1962年に改良して出したP312型のブルーバードは当時のベストセラー車になった。

撮影機材はRicohflex。レンズはトリプレット(3枚玉)のRicoh Anastigmat 8cm/f3.5。カメラのボディーはダイキャストではなくて板金細工で、他のカメラよりも圧倒的に安いカメラだったので、劇的に売れた。フィルムはフジ・ネオパンSS)

この付近の現在の地図は


4-2:1953年7月当時の群馬県渋川駅

伊香保温泉への入り口である上越線渋川駅。昔風の威厳のある建物だった。1921年(大正10年)7月1日に上越南線の開通とともに開業した。

駅の前に止まっているのは、いずれも米国車。国産車はまだ少数だったし、性能も耐久性も劣っていたから、あまり使われていなかった。

3台あるうち、右と左はフォード1949年型。当時のベストセラーカーで、日本にも多く走っていた。中央はオールズモビル。 フォードのほうが背も低く、1950年代以降の主流になる、フラッシュサイドというデザインだった。

いずれも左ハンドルで、3段のマニュアル・コラムシフトであった。エンジンはサイドバルブの方式だった。

(撮影機材はSamoca 35。レンズはトリプレットのEzmar 50mmf3.5。当時の最高峰レンズ、ライカのelmarに似た名前を付けているのが哀しい。フィルムはフジ・ネオパンSS)


4-3:1957年3月当時の東京・新宿駅西口広場

いまの新宿西口からは考えられない、田舎の駅前だった。戦争が終わって12年。東京の空は、いまよりもずっと広くて青かった。

左の第一銀行はその後の第一勧銀、いまはみずほ銀行になっているはずである。中央には日本石油のガソリンスタンドがある。

バスは、ボンネットバスだった。中央部の拡大写真(左下)では、西武バスであったことが分かる。新宿西口までが西武バスの縄張りで、底から東への乗り入れは出来なかったであった。向こうを走っているバスは小田急バスである。

バス以外の乗り物は、ガソリンスタンドにいるタクシー1台と、ジープ(軍用車)1台だけだ。東京の道路は渋滞など、なかったのである。

しかし、道路には水溜まりがある。新宿西口でさえ、舗装されていない場所があったのである。歩道にもありこちに盛り土がある。

いまの、どこを見渡しても広告だらけの新宿西口とちがって、このころには、中央に清酒「黄桜」の大看板がある以外、広告はほとんどない。

(撮影機材はSamoca 35。レンズはEzmar 50mmf3.5。フィルムはフジ・ネオパンSS。撮影日時は3月9日の朝9時。絞りはF5.6、シャッターは1/100秒)


4-4:1957年7月東京都中野区・鍋屋横丁の七夕風景

中央線の中野駅から1キロあまり南の青梅街道沿いにある鍋屋横丁は昔から栄えた商店街だった。

毎年7月になると、恒例の七夕の華やかで大きな飾りが商店街を彩る。 娯楽の少なかった時代の子供たちにとっては、心が浮き立つ夏祭りでもあった。

飾りを吊ってあるのは、当時のことだから、もちろん、本物の孟宗竹だ。

このサイズの画像にしてしまうとほとんど見えないが、元フィルムには、両側の電信柱につけられた広告の字が読みとれる(右下の一部拡大写真では見える)「白萩あみもの学園」「質屋」「履物(はきもの)」、そして左側の電柱には文化区の中野らしく「ロシア語教授」の看板が見える。

七夕の飾りを
ほとんど宮本常一の世界である。

撮影機材はRicohflex-Y。レンズはRicoh Anastigmat 80mmf3.5。3枚構成の「トリプレット」タイプのレンズ。フィルムはサクラSSフィルム。


4-5:1957年3月当時の日産自動車横浜工場の前

ボンネットと裸のシャーシーだけで車体も荷台もない陸送用のトラックが工場から次々に出ていった。このころは、トラックの陸送は、この形のまま、全国に配送されていた。

燃料も、ぎりぎりしか入れない。運転手は舗装していない道路のホコリ除けに、手ぬぐいで顔を覆った姿のまま、リンゴの木箱を置いただけの、吹きさらしの仮の運転席に座って運転を続ける。雨が降ったら、もちろん濡れ鼠だ。大変な労働であった。

もちろん、こんな状態では、駆動輪である後輪にかかる荷重はごく少なく、車体のバランスは悪い。じゃじゃ馬を乗りこなすような、プロの運転技術が必要だった。

到着地で、トラックの運転席や荷台を、客の注文に応じて、取り付ける。つまり当時のトラックは受注の一品製作なのであった。

(撮影機材はSamoca 35。レンズはEzmar 50mmf3.5。フィルムはフジ・ネオパンSS。撮影日時は3月7日の昼。絞りはF8、シャッターは1/100秒、黄色Y1フィルター)


4-6:1957年3月当時の東京・羽田空港

当時、羽田は国際空港と国内空港を兼ねていた首都圏唯一の民間空港だった。東京のはずれにある、干潟に面した寂しい場所であった。

いまの羽田空港は、はるかに拡張
されている。

駐機しているのは、当時の国際線の花形機、ロッキード・コンステレーション。垂直尾翼が3枚ある優雅な4発のプロペラ機である。

(撮影機材はSamoca 35。レンズはEzmar 50mmf3.5。フィルムはフジ・ネオパンSS。撮影日時は3月8日の午後。絞りはF5.6、シャッターは1/100秒)


4-7:その5年後。1962年11月当時の東京・羽田空港

このころもまだ、羽田は国際空港と国内空港を兼ねていた。写真に見られるように、管制塔の左手には、大きな空港ビルを新築中だった。

しかし、長距離飛行機はジェット機になった。駐機しているのは、当時の国際線の花形機、英国のコメット。世界初のジェット定期旅客機である。第二次大戦後の1949年にデハビランド社が開発した4発のジェットエンジンを主翼の根元にスマートに埋め込んだ新鋭機だった。最大座席数は78席だった。いまなら小型ジェット旅客機より少ない。

当時はボーディングブリッジはまだなく、タラップ車を飛行機に寄せて、乗降していた。雨が降ったら濡れるし、夏は暑く、冬は寒かった。しかし、見送りの人々にとっては、乗客が飛行機に入るところまで見送れるのは、今にはない情緒があった。

しかし、この花形機コメットは、やがて、悲劇の事故に見舞われる。空中分解、という飛行機にとってもっとも恐ろしい事故だ。

デハビランド社が開発したときには、当時としては考えられるすべてのテストを行っていた。英国からカイロなど海外各国への多数の試験飛行はもちろん、熱帯地帯での試験はスーダンのハルツームで、また、高地試験はケニアのナイロビで行われた。

これらのテストに合格したあと、英国航空BOAC(いまの英国航空とは別会社で前身ともいうべき会社)に引き渡され、1952年5月にはロンドン〜ヨハネスブルグ(南アフリカ)路線で運行を開始した。これが世界最初のジェット機による定期旅客便になった。1953年4月3日にはロンドン〜東京羽田路線が開設された。

ところが、ロンドンから各地への路線が就役してからちょうど1年後の1953年5月、インドのカルカッタを離陸したBOACのコメットが墜落し、ジェット旅客機の史上最初の死亡事故を起こ した。しかし、それだけではなかった。1954年1月にはシンガポール発ロンドン行きのBOACのコメットが、ローマからロンドンに向かって離陸したあとエルバ島上空8700mで空中爆発し、機体は2つに分解して、炎上したまま海上に墜落した。ともに生存者がいない惨事だった。

英国航空BOACではコメットの運航を自主的に中止し機体の総点検を行うとともに、疑わしいと考えられたところを補強した。しかし、悲劇はまだ収まらなかったのである。

その3ヶ月後の1954年4月、今度はロンドン発ヨハネスブルグ行きの南アフリカ航空のコメットが、次の経由地カイロに向かってローマ空港を離陸した後、ナポリ南東ストロンボリー島沖のチレニア海上に墜落して全員が死亡した。この機体もやはり英国航空BOAC)の機体だったが、南アフリカ航空がチャーターして南アフリカ人の乗員によって運航されていたものだった。

この3回の空中分解を受けて、コメットの運航は完全に停止された。そして、イギリスの総力を挙げての事故調査が開始された。英国王立航空研究所による実機を大型水槽に漬けての加圧を繰り返す疲労試験が行われた。1800回余の加圧減圧を繰り返したときに、金属にヒビが入った。原因は金属疲労だった。これは、当時はまだ知られていない現象だった。

大西洋便に就役させようとしたパン ・アメリカン航空PANAMや欧州線の開設に投入しようとした日本航空JALなどから注文を受けていたデハビランド社は、コメット3型機の開発を中止した。また、東京まで延びていたBOACのコメットの路線も消滅した。

その後、改良が加えられたコメット4型が登場し、最初に大西洋横断路線に就役したのは1958年10月になってからだった。しかし、それでもライバルのボーイングB707より3週間早かった。東京線も再開された。

だが、連続事故のイメージが響いたのか、BOACでこそ使われたものの、その後の航空他社からの発注は延びず、コメット4シリーズの生産は合計79機で終わってしまった。パイオニアゆえの悲運の飛行機であった。一方B707は、その後、国際線の花形機として、長らく使われたある意味では、二番手の利得、漁夫の利とも言えよう。

地震予知が難しいのと同じく、金属などの「もの」が破壊することを解明することは難しい。しかし、この経験を元に、飛行機はその後、飛行回数に応じた定期点検と、安全係数を設計に織り込むことによって、その後の悲劇を防いでいる。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 50mm f1.4。フィルムはサクラ・コニパンSS)


5-1:1963年11月。自動車ショー

1960年代に入ると、サラリーマンにとって自動車を買うことが手の届く夢になってきた。

毎年秋に、東京・千駄ヶ谷の体育館で開かれていた自動車ショーには、人々の夢をくすぐるモデルカーや新車が並び、多くの人を集めるようになった。(なお、この後、展示場所は晴海埠頭の展示場に移った)。

しかし、昨今の自動車ショートはなんという違いだろう。自動車を食い入るように見つめているのは、成人の男ばかりだ。子供や女性の姿は見られない。

いまから見れば、異様な風景だった。観客は、自分の懐具合と、どのくらい無理をすれば買えるのか、という算段で胸がいっぱいだったに違いない。車の傍らに立つ女性たちも、観客の心中を思えば、近頃のショーのように、派手な姿でにこやかな笑みを浮かべるわけにはいかなかったに違いない。

一方、自動車メーカーは、たとえば左側に写っているトヨペット・クラウン(トヨタ・クラウンと称したのは後年である)の新車のほか、手前に見える車のように、作る見込みも売れる見込みもない、一台だけのショー向けの車を作って、人々に幻想を与えることが当時から行われていた。

この車はトヨタ・パブリカの2ドア・クーペとして展示されていたが、もちろん、トヨタは売る気はなかった。

ショー向けの車のため、各自動車メーカーは、イタリアの車デザイナーであるミケロッティやジウジアーロに、途方もない金を払って、形だけの見栄えのいい車を一台だけ作って展示していた。エンジンも、サスペンションも、ブレーキも旧式のまま、洒落たどんがらだけを被せる。哀しい習慣であった。

もちろん、ヨーロッパのデザイナーたちにとっては、本気でデザインしても生産も販売もされない車のデザインに力が入るわけはない。欧米のオーケストラやオペラが日本での演奏に手を抜のと同じような構図がなかったとは決して言えまい。

じつは、トヨタはパブリカをベースとしてトヨタ・スポーツ800という、トヨタが作った車としては私がもっとも買っている車を作ったことがある。1965年4月に発売になり、当時の金で定価が約60万円だった。これは日本でデザインされた車で、580kgと軽量でデザインも優れていたが、じつはこの車は(1967年に発売になったトヨタスポーツ2000と同じく)ヤマハ発動機の設計であった。この写真の車とは似ても似つかない車だった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはフジ・ネオパンF)


5-2:1963年11月。東京・渋谷駅前

人々の生活にようやくゆとりが出来て、戦後の荒廃から立ち直ってきたころ、大きな駅の周りで、ビルやバス乗り場の整備が行われるようになった。

これは東京・山手線の渋谷駅の西側。現在もある渋谷東急ビルの新築工事が行われていた。手前は、現在、バスターミナルになっている広場だ。

この写真の左手には、首都高速道路が、1964年の東京オリンピックに間に合うよう、急いで工事が行われていた。つまり、この辺一体が工事だらけだったのである。

右奥にある丸い屋根の建物はリキ・スポーツパレス。当時のプロレスの英雄・力道山が1961年7月に作った10階建てのプロレスの殿堂(3000人収容のプロレスホール、近代的なスポーツジム、 ボーリング場、サウナ風呂、レストランなどを備えた日本初の複合娯楽施設)だった。

しかし、東京でもっとも賑やかだったこのあたりにも、まだ6-7階建て以上のビルは数えるほどしかなかった。写真に見られるように、渋谷駅のすぐまわりにも、2階建ての商店や家が普通だったのである。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 50mm f1.4。フィルムはフジ・ネオパンF)

この付近の現在の地図は


6-1:1959年。京都駅前

1959年の京都駅前は、目障りで醜悪な京都タワーもなく、写真の京都郵便局が、駅前でいちばん大きなビルだった。その後ろは、丸物(まるぶつ)デパート。5階建てである。いまとちがって空はまだ広く、駅前広場はのびやかに拡がっている。

京都のデパートで最初にエスカレーターができたのが、この丸物デパートだった。

前身は、大正9年(1920)開店の「物産館」だったが、1931年(昭和6年)に「丸物(まるぶつ)」と改称し、京都で最初のデパートとして開業した。

1936年(昭和11年)〜1938年にかけて大増築をし、市内の大丸・高島屋とともに京都の三大百貨店といわれた。

1977年には近鉄グループ入りして「近鉄デパート」へと店の名を変えた。いまや、近鉄が「丸物」だったことを知る人たちは、ひとにぎりしかいない。もちろん、ビルは建て替えられている。

(撮影機材はSamoca 35。レンズはEzmar 50mmf3.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)


6-2:1968年8月。大阪・梅田駅前と新世界と道頓堀
関西人はともかく、大阪の中央駅が「大阪駅」ではなくて「梅田駅」であることに戸惑う人は多い。国鉄(いまのJR)で「大阪駅」で下りて、外へ出ると、そこは「梅田駅前」だし、同じ場所から出る阪急や阪神の私鉄は「梅田発」なのである。

もちろん、大阪の人にとっては、なんの不思議もないことだし、他の人が戸惑ったり迷惑をこうむったりしていることに思いを馳せないのも、大阪の人なのである。

写真は1968年夏に撮った。当時、日本には珍しかった、7-8階建てという当時としては高層ビルのデパートや、長大な歩道橋が、ここには誇らしげに建っていた。

しかし、夜間照明の数からわかるように、夜は、いまとくらべてはるかに暗かった。時代である。時代といえば、中央左は大和銀行、右は第一銀行。これらの銀行もなくなってしまった。

並んでいる車は国産車ばかりだ。左端に後部を見せているのは、フラットデッキという特異なスタイルで目だった高級車プリンス・スカイライン。後輪にド・ディオン・アクスルという独立懸架の、当時としては先進的なメカニズムを持っていた。

右端の二台はトヨペット・コロナ。トヨタとしては高級車のクラウンのひとつ下のランクの小型車だった。趣味が悪い昨今のトヨタ車のデザインとくらべて、端正で品がいいデザインである。 なお、右から4台目の白い車はダイハツ・コンパーノ。ダイハツはかつて「大阪発動機」という会社だった。つまり、ここは地元である。いまはトヨタの傘下に入ってしまったが、ユニークで、大メーカーにはできないすぐれた小型車をいくつも生み出していた。

右は同じ1968年の新世界。大阪有数の盛り場だ。大阪ならではの派手な看板が立ち並ぶ、いかにも大阪の下町だ。

この「づぼらや」は自称・大阪名物、ふぐ料理店「づぼらや」である。大阪・阿倍野(あべの)に始まった「づぼらや」は庶民の台所として愛される定食屋であった。のちに新世界に移り、戦前の庶民の食を支え続けた、いわば、ファミリーレストランの先駆けであった。また、大阪の繁華街、道頓堀にも店があって、現在まで、繁盛している。

【追記】2016年7月、あるブログの管理人の方から、この「すぼらや」は(以前のこのホームページにあった道頓堀ではなくて)新世界の本店ではないか、というご指摘があったので、記述を直しました。

しかし、ど派手な宣伝ぶりは、いまも変わらない。

てつちり250円、親子丼120円、上天丼が230円、ウナギまむし150円という値段も、また、青い字で書かれた「冷房完備」も時代を感じさせる。

写真に見られるように、丼たったひとつでも出前をしていたのであろう。大阪らしいサービス精神である。

【2020年6月に追記】6月に報じられたが、この『づぼらや』は新型コロナウィルスの営業自粛の影響を受けて、9月に新世界本店、道頓堀店の両方ともに閉店するという。さびしいことだ。づぼらやは1920年創業。手ごろな価格でフグ料理を提供し、店先に飾ったフグの大ちょうちんで知られる。創業の地の新世界が労働者街に近く、自由気ままな格好でずぼらに食べてほしいという趣旨から「づぼらや」と名付けられた。

これも1968年の大阪の新世界。通天閣。

通天閣は 「なにわのシンボル」だったが、明治45年(1912)に建てられた初代の通天閣が昭和18年(1943)1月に火災に遭って解体されていた。それが1956(昭和31)年10月に再建されたものだ。

初代はフランス・パリのエッフェル塔と、同じくパリの凱旋門という二大名所を組み合わせた、という、なんとも大阪的な高さ64mの塔だった。当時は東洋一の高さを誇った。

いまの二代目の設計者は早稲田大学教授の内藤多仲。1958年に完成した東京タワーの設計者でもある。高さは初代を上回る103m。当時は珍しかった円形のエレベーターを備えたのが特徴だった。もちろん、いまは東洋一どころか、アジア各国にあまたある高層ビルやタワーと比ぶべくもない。

新世界松竹や大映の大きな看板がある。この二代目の通天閣が建つ前に、ここには東映・東宝・松竹・日活・大映などの大手映画会社の封切館が揃って、映画を中心とした娯楽産業の隆盛ととも、関西の娯楽の中心地であった。

日吉食堂、コーヒー紅茶、洋食といった看板が時代を感じさせる。

集団就職で田舎から大量に出てきて阪神間で働いていた若者たちが、休みの日に、小遣いを握りしめて訪れた町だった。

この写真のときには、通天閣のてっぺんにある天気予報を示す円筒状のネオンは、まだなかった。ネオンは1979(昭和54)年に設置されたものだ。当時は「日立のエレクトロニクス技術」をうたって、気象協会と通天閣を専用回線で結んでいることが「売り」であった。もちろん「日立ポンプ」の宣伝は、Hitachiに変えられている。

(撮影機材はOlympus Pen EE。レンズはD.Zuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR)

6-3:1960年10月。中央本線小淵沢駅

中央線から小海線が分かれる小淵沢駅も、ごく普通の田舎の駅だった。もちろん電化はまだはるかに遠く、D51の蒸気機関車(SL)が客車を引っ張っていた。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)

この付近の現在の地図は


6-4:1961年4月。中央本線富士見駅

中央線)の小淵沢駅のひとつ諏訪寄りの駅、富士見駅も、1961年当時はうらさびしい、田舎の駅だった。いまは、鉄筋コンクリートの中層ビルが林立していて、富士山もビルの隙間からしか見えなくなった。

もっとも「富士見」とはいっても、ここから見える富士山は山頂部だけしか見えない。上空から見える、伸びやかな富士の姿とは大違いで、天下の富士を見ている、という感じがしない。

しかし、駅の北西側の高台からは、駅から見るよりは富士山が見える。これは釜無川 (富士川)が流れる方向(甲府盆地側)がずっと開けているからだ。この凹んでいる地形はフォッサマグナ(糸魚川から静岡に至っている)で、そこに富士見があることになる。

隣の小淵沢駅が支線の始発駅だったからプラットフォームに屋根があったのと違って、このホームには屋根もない。架線もないから、空が広い。しかし、これでも中央「本線」であった。ホームは舗装もされておらず、砂利が敷かれているだけだ。ここは、南アルプスも八ヶ岳も望める景勝の地である。残雪が眩しい。

昭和30年(1955年)代の初めまでは、駅に隣接した北側には天然の氷を作る池があった。そして、その氷を夏まで
貯蔵する小屋が中央線の線路に沿って、並んでいた。

やがて天然氷の需要がなくなり、その池を使ってその後スケートリンクが出来たのが写真の時代であった。そもそも、諏訪地方を中心にしたこの辺一帯は使っていない田圃に冬に水を入れるとスケートリンクになる。それゆえ、「下駄スケート」を履いて滑る子供の遊びが盛んで、当時はこの辺出身の全日本クラスのスケート選手を輩出したところである。

写真に写っている当時、唯一の観光は、スケートリンクだった。雪が少なくて寒い、という地の利をせめても生かそうとした観光であった。写真にある木造の小屋は、まだ残っていた天然氷の貯蔵庫だ。いかにも、片田舎のスケートリンク、という風情だった。

しかし、その天然スケートリンクも、底面に冷却パイプを敷き詰めた、条件がいい各地の人工スケートリンクに押された。また、昭和40年代になるとその池を埋め立てて運動場にし、夏に各地の学校の生徒に来てもらって合宿所として使われるようになった。この企ては先行した菅平や白馬などの後追いだった。しかし、各地に乱立したライバルとの競争で、たち行かなくなった。そして運動場や合宿所やホテルも消えた。駅の北東側は、いまは図書館などになっている。スケート、体育合宿と時代の先端を追った地方の、どこにでもある哀歌のひとつである。

レールの上に乗っているのは諏訪保線区が持っていたレールトラック。マツダのトラックを改造して、レールの上を走れるように鉄のタイヤを取り付けた車である。レールから下りたときには普通の道を走れるように、タイヤやステアリングなど、トラックのもともとの装置はつけたままだった。 これは業界用語では「軌陸車」(きりくしゃ、2009年のものはこちら)という。

この富士見駅の標高は955メートルで、小海線の駅を除けば、日本の国鉄(いまのJR)で、いちばん高いところにある駅だ。

1932年(昭和7年)12月までは、日本一高い駅だった。しかし、この月に小海線の小海駅から佐久海ノ口駅までが開通して4位に、のちに小海線が全通して、野辺山、清里、甲斐大泉、信濃川上、佐久広瀬、甲斐小泉、佐久海ノ口、海尻、松原湖の駅が国鉄(JR)の1位から9位を占めている。

そもそも、この富士見駅は1906年の開業当時は中央東線の終着駅だった。それより西が延長されたのは17-18年後のことである。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 50mm f1.4。フィルムはサクラ・コニパンSS)

中央本線の下りは、標高266mの甲府から955mの富士見まで、ずっと上り坂だ。当時は、急勾配や半径300〜400メートルの急カーブが連続する「山岳路線」だった。

甲府から富士見の間だけでも、韮崎、穴山、長坂などに「スイッチバック」があり、一息では登れない列車が何度か止まり、ジグザグをくり返して登っていく仕組みだった。

このスイッチバックには、いかにも、あえぎながら急坂を上っていく情緒があった。

しかし、これでは、特急も通る「本線」というには、列車はあまりに遅い。このため線路を切り替え、列車も改良して、いまでは、この線でのスイッチバックは姿を消した。なお、スイッチバックは、2008年現在、箱根登山鉄道などにわずかに残っているだけだ。

中央線が新宿から茅野まで電化されたのは1970年9月。信濃境〜富士見の区間は、富士見駅付近にあった急カーブを1980年9月に複線化して、線路を別のところに敷きかえ、富士見駅近くの線路は昔と別のものになった。

右の写真は2008年6月の富士見駅。向こうが諏訪方面。駅のプラットフォームは同じところにあるのだが、北側に図書館などのビルが建ってしまったために、駅から北東側、八ヶ岳方面の展望はなくなってしまい、駅とその周辺の、のどかだった風景は一変してしまった。


(2008年6月。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ20。36mm相当、F4.6、1/640s)

この付近の現在の地図は

(富士見の歴史については、私の高校の同級生、林嘉宏君から教わったことが多い。彼の祖父母は昭和の初めに富士見に別荘を建てた。付近には、いまは岩波書店が管理している犬養木堂(犬養毅)の別荘(「白林荘」)や、今は建物がなくなっているが、渡辺子爵の別荘(「分水荘」)もあった。この分水荘は尾崎喜八が戦後何年か居候をしていたところで、しゃれた洋館だったという。「分水」とは富士見駅の300メートルほど諏訪寄りにある分水嶺から名付けられたものだ。)


6-5:1964年5月。山形駅前

渋谷駅前がビルラッシュに湧いていたころ、地方都市山形の駅前は、まだのんびりしていた。空は広く、駅前広場では人もゆったり歩き、車も止まりたいところに駐車していた。

バスはボンネット型ではなくなりつつあったが、エンジンが前部にあるキャブオーバー型で、前部にラジエターグリルがあり、いまのリアエンジン型とは違う顔つきをしていた。

中央右手、クラウンの後ろに見える小さな白い車は、2人乗りの軽自動車、マツダクーペ360である。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはサクラ・コニパンSS)


7-1:1962年2月。西武池袋線・石神井(しゃくじい)公園駅

渋谷駅前がビルラッシュに湧いていたころも、東京でさえ郊外の駅は昔のままだった。こらは池袋から西へ8番目(いまは9番目)の駅である。

当時は、まだ、いかにも郊外電車の駅、という雰囲気で、通勤ラッシュとも無縁だった。しかし、現在は、利用者が一日約7万人と西武鉄道全体で11番目、また、練馬区内で3番目に多く、池袋から最初の急行停車駅である。

駅前広場では人もゆったり歩き、車も駅前に堂々と止まっていた。車は止まりたいところに駐車していた。なお、この駅舎は1928年から1962年まで、34年間使われた。つまり、この写真は改築になる前の最後の写真である。

車は、いすず自動車がノックダウンで組み立てていた、英国車のヒルマン・ミンクス。庶民には手が届かない、高級車だった。当時の国産車であるトヨペット・クラウンやプリンス・スカイラインと比べて、エンジンも乗り心地も、一歩も二歩も進んだ車だった。

いすゞがヒルマン・ミンクスの組み立てを始めたのは1953年10月だったが、1956年には2代目であるこの写真の型の新型のヒルマン・ミンクス(PH100型)の組み立てを始めた。

当初は輸入部品の組み立てをしているだけだったが、エンジン、ガラス、シートと次第に各部品の国産化を推し進め、1957年10月にはついに完全国産化を達成し、その後生産は1964年6月まで続けられた。後期には、いすゞが独自生産したエンジンが本国のエンジンを上回る馬力を出した。なお、1961年度のヒルマンのいすゞでの生産台数は10875台であった。

当時の価格はスーパーデラックスが92万円、スタンダードが72万円。一部の富裕層だけが買えた車だった。ちなみに、ヒルマンが国産化を始めて5年目の1958年、公務員の初任給は1万2000円だった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはフジ・ネオパンF)


7-2:1990年1月。西武池袋線・石神井公園駅

じつは、1960年当時には、この駅には跨線橋はなかった。つまり、乗客は線路の上を渡って、プラットフォームに登っていたのである。

この写真の1990年には、跨線橋がすでに作られていた。しかし、いかにも郊外電車の駅のようだった駅は、なんの変哲もない、いかにも安普請の建物になってしまっていた。

駅前広場は、まだ、乳母車を押してゆっくり歩く人がいるなど、まだ、のんびりしている。バスを待つ人々の列が見える。 駅の前にある木は、この次の駅の改装とともに、消え去る運命にあった。

(撮影機材はOlympus OM4。レンズはTamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


7-3:2004年8月。西武池袋線・石神井公園駅南口

1990年当時と同じ跨線橋がある。しかし、風景の中で、なんと小さくなってしまったのだろう。

跨線橋のすぐ右手にある緑の屋根の自転車置き場も、1990年当時には、青空の一角を切り取っていた。しかし、いまは、なんとも小さい。

空を狭くしてしまったこの巨大なマンションは2002年3月に建てられた。高さは100.7メートル、33階建てだ。

この石神井公園駅に限らず、同じ西武池袋線でも、練馬、大泉学園、所沢、ひばりヶ丘などに、この種の巨大なマンションビルが建ってしまった。景観を損ねたばかりではなく、風害も、かなりのものだ。

一番手前は、交番、その後にくっついている二階建てが、駅の事務室や切符売り場である。


7-4:2009年9月。西武池袋線・石神井公園駅南口

その後、1990年当時と同じ跨線橋はなくなってしまい、地上を走っていた西武池袋線を高架にする工事が進められている。

高架線にする、と言っても当面は上り線だけの工事で、下り線は当分、地上を走る。この付近に多い「開かずの踏切」は、まだ、解消されない。

上の7-2、7-3の写真の時代から残っているものは、中央のバスの向こうに見える2階建ての自転車置き場と銀杏の木だけになってしまった。

写真は右手が池袋へ向かう上り線、左手が飯能や秩父に向かう下り線だ。

練馬区の人口は71万人に迫っている。地方都市ならば、大都会の人数である。多くの県庁所在地の人口をはるかに超えている。首都圏はますます過密になっていっているのである。


7-5:1958年春。東京都練馬(ねりま)区の石神井川の桜

都会の川は、いま、どこでも、側面も底面も、コンクリートで覆われてしまった。つまり、大きなどぶになってしまったのである。

しかし、半世紀前には、東京23区にも、このような、のどかな景色が残っていた。これは、三宝寺池(さんぽうじいけ)から流れ出している石神井川に沿って植えられていた桜が満開のころの景色だ。

道は舗装していないし、木造平屋建ての民家が並んでいる。

当時は、この石神井川で、シジミがとれた。私たちも、よく、採ったものである。しかし、いまでは誰にも信じてもらえない。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)


7-6:1968年。東京都北多摩郡(現・清瀬市)の西武池袋線・清瀬駅南口

始発駅の池袋から西へ13駅(いまは14駅)のところにある清瀬駅は、戦前から、戦後しばらくの間は、いまのような通勤客で混雑する駅ではなく、12もあった病院と、点在する農家のための駅だった。

 そもそも私が小学校へこの清瀬駅から通っていた1940年代には、西武池袋線は地味な緑色の2両連結で、農産物や肥料や、石灰石など秩父の鉱産物を運ぶ鉄道の色合いが強かった。沿線には一面の農地が拡がっていたのである。

西武池袋線の前身である武蔵野鉄道は1915年に開通したが、はじめは清瀬に駅はなく、1924年になってはじめて清瀬駅が作られた。そして、病院が増えていったのであった。

この12のうちの多くの病院は大規模な結核の病院や療養所だった。結核は安静にして長期間かかって治すやっかいな病気で、根治策はほとんどなかった。死に至る患者も多かった。このため、郊外で土地が広く、松林が広がっている清瀬が選ばれたのである。

この清瀬駅は、見舞客や患者にとっての多くのドラマや思い出を運んだ駅だ。池袋からの郊外電車である西武池袋線でも、見舞客にちがいない、楚々とした女性が、ひとりで、物思う顔でうつむいて、ひっそりと座っていることが多かった。

しかし時代は変わった。住宅地の波は、いまや清瀬をはるかに超えて当時の終点だった飯能にまでおよび、清瀬の病院街のまわりも、住宅やマンションで埋め尽くされた。いまの清瀬駅は、通勤客であふれかえっている。2007年度の乗降客数は71,500人にもなり、これは(池袋線と新宿線をあわせた)西武鉄道全92駅のうちで10位にもなった。なお、
西武鉄道の駅のうち、乗り換え駅を除く駅としては大泉学園駅、田無駅に次いで3番目に多い駅になった。

このように清瀬の人口も急増し、1954年に清瀬村から清瀬町となり、さらに1970年には清瀬市になった。

(撮影機材はOlympus Pen EE。レンズはD.Zuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR)


8-1:1963年夏・境港(鳥取県)の木造燈台

漁港として有名な境港の入り口には木造の燈台があった。国鉄の境港駅から徒歩25分ほどのところだ。

ここは町に近いが、僻地や離れ島の燈台では、灯台守の一家が住んで燈台を守っていた。たいへんな生活だった。

「喜びも悲しみも幾年月」という昭和の映画黎明期の名作が1957年に作られ、日本中を感動させた。高峰秀子など、当時の大物名優が こぞって出演した映画だった。原作は田中きよ「海を守る夫とともに二十年」。

海上保安庁では燈台補給船という特別な船「若草」を持っていて、定期的に、燈台を回って、物資の補給や点検や修理をしていた。

この燈台は1895年11月、山陰で最初に建てられた灯台である。その後の灯台と違って、光が回転しない「不動」白光電灯で、約23kmの沖まで光を届けていた。この写真を撮ったすぐあと、1965年に解体されたが、1991年に史跡として復元されている。後の鉄塔は無線塔と霧笛である。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 50mm f1.4。フィルムはフジ・ネオパンSS)


8-2:1963年夏・境港(鳥取県)の目抜き通り

境港の目抜き通り。夏の午後なので、道に打ち水がしてある。もちろん、エアコンなどはどこにもなかった。

道を横切っている大きな飾りには上に「本町」その下に「千代むすび」とあり、その左には「清酒」、右には「スポーツ」とある。不思議な表示だが、千代むすびとは、スポーツ用品店の名前ではなく、たぶん酒造りの名前なのであろう。

食堂「かめき」のすぐ隣には「靴のかめき」がある。この地方の財閥なのだろうか。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)

この付近の現在の地図は


8-3:1962年7月。大糸線・信濃森上駅前

その後、スキー場を中心とする一大観光地になった長野県白馬村。しかし1962年の夏の観光シーズンの盛りでも、駅前を歩くのは地元の人が数人だけだった。

私たちは後立山を縦走して、鹿島槍から下山してきたところだった。

中央に見えるのが駅舎。駅のすぐ前に火の見櫓があった。地方の駅の前は、当時はもちろん、この写真のように、舗装していないのが普通だった。

大糸線は当時から、幹線ではない線としては珍しく、電化してあった。しかし、走っているのは、東京近辺の国電のお古で、焦げ茶色の63型といった旧式の電車だった。

この63型は、戦時中最後の新製車として製造されて、戦後も大量に使われていた電車だが、1951年4月24日、 京浜線の横浜桜木町駅で満員のときにパンタグラフから発火して106人が焼死したことがある。

出火した火は車内に燃え移り、電車は炎に包まれた。しかし、ドアの開閉ができなくなり、また、窓も上下に三分割のうえ、中段が固定式のものだったので、人が逃げられる大きさではなかった。当時の電車は天井も床も窓も、木造だった。 また、非常時のドア開放装置もなかった。

大糸線は、飯田線や身延線などとともに、比較的遅くまで戦前型の旧形国電が多数使われた路線だった。収入が期待できない、貧しい路線のひとつなのであった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはサクラ・コニパンSS)

右の写真は2008年6月、46年後の信濃森上駅。駅にはプラットフォームが二つあり、それをつなぐ跨線橋が出来ている。つまり、線路をわたらなくても、向こう側のホームに行けるだけ「近代化」された。

しかし、これで「便利」になったのだろうか。汽車の本数は、いまでも1時間にせいぜい1本。高い跨線橋の階段を上がって、また下りるよりは、たった数段の階段を線路まで降りて、向こう側のホームにわたるほうが、よほど便利で、老人や子どもにもやさしいのではないだろうか。

駅前は、半世紀たったいまは、もっとさびれていた。バブルっぽいスキーブームが去り、白馬を訪れるスキー客は、ひところの1/20だという。観光という麻薬のような徒花に頼らなくても、地方がちゃんと生きられることこそが大事なのではないだろうか。

この付近の現在の地図は


(2008年6月。撮影機材は Fuji Fnepix S602。36mm相当、F8.0、1/550s、ISO (ASA) 200)


9-1:1962年夏の館山(たてやま)駅前(千葉県)

当時の房総西線は東京からの直通がなくて、千葉始発だった。ディーゼルカーもあったが、多くは蒸気機関車が引いていた客車で、鋸山のトンネルでは、煤と煙が客車に入ってきて大変だった。

駅前にいるのは前がトヨペットクラウン、後ろが日産セドリック。車が高嶺の花の時代だった。ともに当時としてはもっとも大きな国産乗用車だった。エンジンは両車とも1900cc、トランスミッションは、前進3段のコラムシフトだった。

当時、東京から館山に行くのは、汽車だけではなくて、東京・竹芝桟橋からの東海汽船の定期船もあり、私たちは、よく、その船に乗って、館山へ行った 。約4時間ほどの船旅だった。

東京湾内だけの航海とはいえ、三浦半島のほうが、房総半島よりもずっと短いために、海況によっては、三浦半島の剣ケ先灯台を越えるところから、結構、揺れて、外洋気分を否応なく、味わされたことも多かった。

じつは、この剣ヶ先の灯台は、プロの船乗りにとっても辛いところなのだ。何十年も船に乗り続けている船乗りたちも、船が揺れても平気なわけではない。皆、最初は血を吐くくらいの船酔いに苦しみながら、だんだんに船に慣れてきたのだ。

しかし、その彼らも、陸(おか)に上がって休みをとったあと、久しぶりに出港して、この剣ヶ先沖で揺れ出すときには、とても気分が悪くなるのである。つまり、身体が元に戻ってしまっていたのだ。

ところでこの航路では、また、夏の海では、海全体が夜光虫に満たされていて、船が立てる波に沿って光るさまが見事だった。

右の写真は館山海水浴場に入ってくる東海汽船の菊丸。竹芝桟橋からの定期船だ。

一方、海水浴場のほうは、まだ貧しかった当時では、写真に見られるように、水着を着ないで、下着のまま海水浴をしているのが、男にも女にもいた。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5(上)とNikkor 135mm f3.5(下)。フィルムはサクラクローム。褪色していたのを補正したが、尖鋭度が下がってしまっているうえに、カビが生えている。)


9-2:1957年夏の館山駅前通りの七夕(千葉県)

その館山へは、東京・竹芝桟橋からの東海汽船の定期船もあった。私たちは、よく、その船(芙蓉丸)に乗って、館山へ行った。

館山は、房総半島の南端に近い、付近ではいちばん大きな町だ。このため、商店街も賑やかで、毎年7月の七夕の祭りは、当時としては、珍しいほど華やかなものだった。

自動車が通行禁止になっているわけではないが、当時は、自動車の数は、ごく少なかったから、通っていないのが普通だった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 50mm f1.4。フィルムはフジ・ネオパンSS)


9-3:1963年6月。房総西線・富浦駅前

房総西線ではいちばん大きな町だった館山の駅前はさすがに舗装されていたが、その2駅東京よりの富浦の駅前は、ごらんのように、非舗装だった。

館山駅と同じように、大きなソテツの木やハマユウが生えているロータリーが駅前にあった。背中に大きな篭を背負った、東京まで毎日魚の行商に行く担ぎ屋のおばさんたちが普通に見られた時代だった。

右の建物は房総通運富浦営業所、のちの日本通運である。あと、駅前には小さな小売り店や食堂がならんでいた。自動車はごく少ない。

私がよく富浦に行ったのは、私が通学した学芸大学付属大泉小学校も、教育大学付属中学校も、ともに富浦に(別々の)寮を持っていたからであった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 50mm f1.4。フィルムはフジ・ネオパンSS)

この付近の現在の地図は


9-4:1963年6月。房総西線・富浦駅のプラットフォーム

その富浦駅のホームは、屋根もなかった。もちろん、架線もない。

間もなく汽車が来るのだろう、荒縄で縛った積み込む荷物がリヤカーに積まれ、乗客も手持ちぶさたに汽車を待っている。別れを惜しむ人たち。ぽつねんと考えにふける婦人。汽車の運転手に渡すタブレットを持って先方のホームに立つ駅員。

荷物の後に立っているのは、荷物を積み込む房総通運の職員に違いない。当時はこういった荷物は貨客兼用車に載せていた。

先方が東京方向、後が館山方向になる。客の待ち具合から見て、東京方面、つまり両国行きが来るのに違いない。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)

この付近の現在の地図は


9-5:1963年6月。房総西線・浜金谷駅

この浜金谷駅も、架線も屋根もなかった。しかし、ホームの真ん中に、小さな待合室だけがあるだけましだった。ホームは富浦駅と同じく、舗装ではなく、砂利が敷かれていた。

表示には「館山方面」「両国方面」とある。つまり東京方面は、あくまで両国行きだったのである。

東京から来ると、太陽が眩しい南国だった。後の山は房総半島を南北に区切る鋸山。

この駅から南へ、すぐ汽車はトンネルに入る。当時はSL(蒸気機関車)だったから、トンネルは、煙で息苦しいうえ、ススで服が汚れる。息苦しさに窓を閉めると、夏の暑さで汗が噴き出す。苦痛以外のなにものでもなかった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 50mm f1.4。フィルムはフジ・ネオパンSS)

この付近の現在の地図は


10-1:1962年12月。新潟県の日本海岸の難所・子不知の海岸道路。

新潟県西頸城郡青海町には有名な親不知・子不知の海岸がある。狭い道路が海岸沿いの高いところを通っていて、昔から難所として知られている。

当時の定期バスが通っている。車がすれ違えないくらいの狭い道だし、転落を防止してくれる柵もない。これが1962年当時、日本の田舎にはよくあった道だった。しかし、ここを毎日運転するのは心臓に悪かったに違いない。雪のときの運転は想像を絶する。

バスは、当時日本全国で使われていた、日野自動車製のボンネットバス。ライバルのいすゞのバスよりも品のいい顔つきをしていたが、バスの数としてはいすゞのほうが多かった。

いまは、ここにも高速自動車道・北陸道と新しい国道が通った。しかし、この両方とも、トンネルでこの道の山側を貫いている。さすがに、ここに広い道を新しく造るのは不可能だったのだろう。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 50mm f1.4。フィルムはサクラ・コニパンSS)

この付近の現在の地図は


10-2:1964年8月。名神高速道路。彦根まで27km、京都まで96kmの地点。

名神高速道路は、まだ開通したばかりで、通行料金も高かったので、驚くほど空いていた。先方には見渡すかぎり1台の車もいなかったことが多かったし、対向車線にも、1-2台の車しか見えなかった。いまの混雑と、道の両側に立ちはだかって視界を完全に遮ってしまっている防音壁からは、隔世の感がある。

当時の車は、エンジンもタイヤも高速走行に向いておらず、抜き去っていった車に感心していると、やがて故障して路肩に止まっていたり、タイヤがバーストして、タイヤの破片がヘビのように路上に転がっていたりするのはざらであった。当時の国産車は、直進さえせず、ふらふらする車がほとんどであった。

【2016年7月に追記】写っているのは当時のクラウンのバン。これでも当時は高級車だった。私が乗っていて平らなボンネットが見えているのは東京大学理学部が研究者に貸してくれたジープ(第二次世界大戦で開発され、その後、日本で国産化された)。OHVの前の時代のサイドバルブというエンジンだった。到底、100km/hは出なかった。4輪ともリジッド・アクスルで、後輪は半楕円バネで支えていたが、このバネは材質が悪いのか、よく折れた。

当時は微小地震観測というごく小さな地震を相手にする観測が始まったばかりで、毎年、夏になると、各大学が高感度の地震計を持ち寄って、集中観測を行っていた。これは私たち東大のチームが、琵琶湖の北にある観測点に向かっているところである。

名神高速道路は、まず尼崎市と滋賀県栗東町の間の区間71kmが1963年7月に日本最初の高速道路として開通し、1965年7月には名古屋から阪神間の全線が開通した。東京までつながった東名高速道路が開通したのは、1969年5月であった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはサクラクローム。褪色していたのを補正したが、カラーバランスが崩れてしまっている)


10-3:1964年11月。柳沢峠(東京・青梅から山梨県・塩山へ抜ける青梅街道の峠)

2008年現在は完全舗装の二車線の道路で、トンネルもガードレールも完備している柳沢峠だが、1964年当時は、軽自動車でさえすれ違えないくらいの、未舗装の山道だった。ガードレールはない。

この道は国道411号。東京都西多摩郡奥多摩町から、山梨県東都留郡丹波山村へ抜ける。峠の標高は1472mある。

走っているのは、軽自動車ミニカ360。360ccの2気筒エンジンで、車体の幅は130cmしかないが、この狭い砂利道では、道いっぱいの幅に見える。

【2013年5月に追記】軽自動車の規格は段階的に大きくなってきたが、それまでは全長3メートル、全幅1.3メートル、エンジンは360ccまでだったものが、1976年1月に、それぞれ3.2メートル、1.4メートル、550ccになった。その後1990年1月からは全長が3.3メートル(全幅は変わらず)
、エンジンが660ccに、1998年10月からは全長が3.4メートル、全幅が1.48メートル(エンジン容積は変わらず)と五月雨式に拡大していった。

鬼才、イシゴニスが作った名車、オースチン・ミニは、全長3.05メートル、全幅1.41メートルだったから、エンジンは小さいものの、いまの軽自動車の車体は、このオースチン・ミニよりも大きくなったことになる。

これは軽自動車を作っていない自動車メーカーと軽自動車メーカーのせめぎ合いと、社会的な要請である衝突安全性の貧弱ながらもの確保、そして規制する当時の運輸省とのせめぎ合いの結果であった )。

【2013年5月に追記
、その2】 柳沢峠は、左の写真のように、中央線がある立派な舗装道路になっていた。昔の道の面影はまったく、ない。しかし、標高が高いだけに、峠の麓にある小河内ダムや甲府盆地では新緑がまぶしい季節なのに、ここの木々はまだ、冬景色だった。

(上のミニカの写真の撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 50mm f1.4。フィルムはサクラクローム。褪色していたのを補正したが、尖鋭度が下がってしまっているうえに、カビが生えている。)

11-1:1963年7月・隠岐島の西郷港

このころの小型漁船は、いまのようなプラスチックではなくて、すべて木造だった。手前の船のように、どの船にも立派な竜骨があって、そこに船大工が、木材を曲げながら張り付けていき、船の形にしていくのは、見ていて楽しい作業だった。

その後、 船がプラスチック(FRP=ガラス繊維強化型プラスチック)になってから、船はその形から趣というものがなくなってしまったが、他方、軽くなり、水漏れの危険も減った。いわば、材料の革命であった。しかし、その後、これらプラスチック漁船は、海のゴミとして、始末に困る時代が到来することになった。

右の橋は1957年に完成したと書いてあるが、橋の上の道は舗装はしていなかった。

撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mm f2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)


11-2:1968年・兵庫県の山陽本線・網干(あぼし)駅

兵庫県、姫路の西にある網干駅。1968年度当時は写真のように全くの田舎の駅だったが、いまは3階建ての瀟洒な駅舎(単式・島式混合2面3線のホームを持つ橋上駅)になり、この駅を始発や終着とする大阪方面への列車も多い。

そしていまは、昼間の大阪方面からの快速(明石以西普通列車)の半数はこの駅まで乗り入れている(残りの多くは加古川駅までの運転)。つまり、関西への通勤圏の端に位置するようになったのである。

じつは、この駅の近くに、私の叔父の家がある。 家を建てた当時は、まるで原野のようなところだったが、いまは、住宅地に取り囲まれている。

この近くには山陽新幹線が通っている。トンネル部分が多いが、レールのかなり近くに行っても、列車が通過するときの振動は、驚くほど少ない。つまり、このへんは花崗岩の台地で、日本でも有数の強固な地盤なのである。地震学者にはうらやましい場所だ。

(撮影機材はOlympus Pen EE。レンズはD.Zuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR


11-3:1973年7月・北海道・釧路にいた蒸気機関車C111号

いまでこそSLブームとやらで蒸気機関車がもてはやされているが、実際に日本各地を走っていたころは、鼻つまみものだった。乗客の衣類や線路際の家や洗濯物には真っ黒なススが着くし、機関士が上り坂のトンネルで窒息死したことさえある。

音や姿はまあまあなのだが、あの黒煙だけは、その時代に苦労した者としては懐かしく思い出せるものではない。

このC11型蒸気機関車は1932年(昭和7年)に製造が始められ、戦後の1947年まで作られた。国鉄向けだけで381両、その他に民間にも少数が売られた。

このC11のうちでも最初の番号の着いたC111は1973年に釧路港近くの釧路開発埠頭という引き込み線にいた。

もともとは滋賀県の江若鉄道で『ひえい』という愛称がつけられていたが、その後、北海道の雄別鉄道に譲られて石炭の運搬貨車の牽引に使われ、最後に釧路へと移ったものだ。

のちに作られたいわゆる戦時型が蒸気溜めや砂箱を角形にするなど、あちこちを簡素化したのとちがって、手間をかけて作られているのが特徴だ。

(1973年7月。釧路港で。撮影機材はPentax SP。レンズはAsahi-Takumar 35mm f3.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)

 


12-1:1971年1月・復帰直後の小笠原・父島

小笠原諸島が日本に復帰したのは1968年6月26日だった。それまでは、
サンフランシスコ講和条約によってアメリカ海軍の統治下に置かれていて、135名といわれる欧米系の旧島民だけが疎開先から帰島することを許されていたのであった。

第二次世界大戦中には、この父島やまわりの島も軍事要塞になり、住民は本土へ疎開させられていた。また、小笠原の硫黄島は激戦地となり日米多くの戦士が死んだ。

米軍の軍政下では、ここ父島にアメリカ海軍の基地が設置され、物資の輸送は一ヶ月に一回、グアム島からの軍用船によって行われるだけだった。欧米系住民も戦前、どこにどのような土地を持っていたかをまったく無視されて米軍によって決められた区画に集められ、その多くは米軍施設で働いていた。

軍政時代には数基の核弾頭が父島に保管されていた。これはずっとあとになって、アメリカの情報公開によって明らかになったことだ。日本の政府や外務省は、いつも平気で国民にうそをつく。

なお、沖縄が日本に復帰したのは1972年5月15日、奄美群島は1953年12月25日だった。

この写真は復帰後まだ2年半しかたっていない父島を海底地震観測の途中に訪れたときのもので、島では、鼻が高くて眼が青い欧米系と思われる人たちをよく見た。東京電力が小笠原父島で内燃力発電所の操業を開始したのは、このあと1972年になってからであった。

海岸には、写真のように、戦時中に座礁して捨てられた軍艦や、墜落した軍用機のエンジンが、錆びたまま残っていた。軍艦の上には写真に見られるように、大きな木まで生えていた。戦後25年目の戦跡である。

なお、欧米系住民の子弟の多くは、日本語教育になじめずに、返還後、多くが米国に移住したという。

写真に写っているのは右端が浅田敏氏、左が浅沼俊夫氏(当時、科学博物館)である。

撮影機材はOlympusPen-FV。レンズは.Zuiko 25mm f4。フィルムはサクラクローム。ハーフサイズ。褪色していたのを補正した)



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