『Colleague』(リクルート『カレッジマネジメント』)、37、1989年7−8月号

秀才は研究者に不向きか

 世は「地球」ブームである。

 フロンガス。地球温暖化。酸性雨。地球の砂漠化。環境破壊と人類の責任。核廃棄物処理。核の冬。これらのニュースがマスコミを賑わさない日がないくらいだ。  地球のニュースはこれだけではない。地震や火山噴火もある。つまり、地球への関心がいまほど高まっている時代はない。

 時代は「地球」なのだ。

 この地球ブームは、学生にも反映する。学生は時代に敏感だ。かっては花形だった化学工業や重工業の学科は、あっという間に人気学科の座から滑り降りてしまった。

 学生が時代に過度に敏感なのは、長い目でみた将来のためには弊害もあろう。時代でないものに挑戦して、新しい時代を開こうという気概こそ必要かも知れない。  

 かって地球物理学は不人気学科だった。資源小国、日本では欧米の国と違って石油や資源関係の就職も知れているし、大学教師のポストもごく限られている。

 地球物理学者には、他の学問をやりたくて夢破れ、地球物理学にまわってきた学者も多い。

 なかでも物理学者になりそこなった地球物理学者は、世界的にも多い。かって世界地震学会長を務めたカリフォルニア大学バークレー校のボールト博士はその典型で、その学風は、いまだに物理学への憧れに満ちている。

 ところが、時代が変わったのだ。

 うちの大学では、二年生の教養課程の終わりに進学する学科を決めるのだが、地球物理学には進学を希望する学生が殺到する。受け入れる定員には限りがあるから、成績が良い者ばかりが地球物理学に進学できることになる。

 あまたの学科の中で、動物、植物など、これも考えようによっては地球「関連」、環境「絡み」と考えられなくもない学科とともに、最難関のひとつが私たちの地球物理学なのだ。昨年の例では、地球物理学に進学出来た最低の席次は上から2割あまりだったという。

 優秀な学生が集まって、地球物理学の学問が順調に進めば、ご同慶のいたりだ。

 ところが、とんでもないところに落し穴があった。

 成績のいい学生はたしかに「勉強」はよく出来る。本や講義を理解するうえで、彼らの能力は遺憾なく発揮される。呑込みが早い。教えたことは忘れない。その意味では秀才なのだ。

 問題は、学生が勉強から研究に踏み出したときに明らかになることが多い。たとえば大学院に進学したときだ。つまり「勉強」の出来る学生が「研究」が出来るとは限らないのだ。いや、むしろ勉強が出来る方が研究に向いていないかも知れない、という悲観論さえある。

 簡単に言えば、与えられた選択枝の中から答えを選ぶのは得意だ。これは彼らが永年の受験戦争を勝ち抜いてきて、もっとも得意とする技術なのだ。

 けれども、既製品の答えがあるかどうか分からない応用問題だと、早くも、うろたえはじめる。

 研究となると、応用問題よりもさらに先だ。研究とは、問題そのものを自分で見つけ、答えを切り開いていかなければならないことだ。どこで外に出られるかわからないトンネルを掘っていくような孤独な作業だ。

 現代の秀才たちは、研究の世界に一歩踏み出したときに、レールのない大平原を前にして、立ち往生してしまうのである。

 これはうちの大学だけの話ではない。偏差値の頂点にある大学でも、事情は同じようなものだ。

 なるほど「時代」は地球かも知れない。しかし、偏差値のような一次元の数値だけでは表せないものこそが求められている「時代」なのではないか。

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