島村英紀が撮っていたカメラ

その6:「消耗戦前夜」のデジカメ編


その1:前編はこちらへ
その2:中編はこちらへ
その3:後編はこちらへ
その4続編はこちらへ
その5:ディテール編はこちらへ


1-1:安物フィルムカメラから脱却する悲願を賭けたコニカ最後のカメラ、デジカメKD-510Z。しかし、まもなく会社がつぶれる運命にありました。

かつての名門、コニカ(小西六)も、フィルム時代の高級機の市場には乗り出せず、他方、儲けの薄い大衆機では、キャノンのような、一見、仕様と見かけがいいカメラを安く大量に作れる会社に負けて、フィルム(銀塩)カメラメーカーとしては凋落の一途をたどっていった。安物カメラ、そして、レンズだけコニカという、もっと安物カメラで食いつなぐしかなかったのである。

そこへ、降って湧いたようにデジカメの時代が来た。出始めは途方もなく高価で、その割には画質が貧弱で、送稿に分秒を争う新聞社などの特殊用途だったが、カメラメーカー以外の電機業界から参入してきたカシオなどのメーカーが、大衆にも手が届くデジカメを売り出すようになっていた。

なお、カシオは電卓から立ち上がった電機メーカーである。私の欧州人の知人は、日本人離れしたメーカー名から、イタリアのメーカーだと思いこんでいた。ソニー(SONY)が、世界各国の言語を調べて、発音がよくて、卑猥な意味を持たない無国籍のメーカー名にして成功したように、「小西六写真工業株式会社」(1987年までこの名前だった)では、とうてい世界に売れない時代になっていたのである。

コニカも、このデジカメ時代の到来に、指をくわえて待っていたわけではない。2001年から同社最初のデジカメ「Konica Digital Revio」を発売し、毎年改良しながら2003年4月には「Konica REVIO SD-410Z」を発売し、続いて同年6月に、この「Konica REVIO SD-510Z」を売り出した。

毎年、次のモデルを出さざるを得ないほど、デジカメの世界は、はじめから忙しかったのだ。

SD-410ZとSD-510Z、二つのカメラは大きさも外観も同じ、ただ、1/1.8インチCCDの撮像素子が400万画素から500万画素になったことと、マニュアル露出モードが追加されたことだけが違った。

この改良によって、「REVIO SD-510」はRevioブランドで最上位のデジカメというだけでなく、当時としては、キャノンのIXY DIGITAL 400と並ぶ最高クラスのコンパクトデジカメだった。

(なお、IXY DIGITAL 400は400万画素だったほかは、3倍の光学ズーム、1.5インチの液晶、光学ファインダーなど、仕様はこのカメラとよく似ている。2003年3月に発売になった。しかし、このIXYデジカメに限らず30機種近いキャノンのデジカメのCCD撮像素子内部で配線接合箇所が外れる不具合が出て、のちに、大規模なリコールと交換を行うことになった)。

当時の希望小売価格はREVIO SD-410Zが63,000円、REVIO SD-510Zが88,000円。フィルム時代のコニカカメラの低価格化に泣いていた同社にとっては、久しぶりの高価格機だった。

右の写真のように、レンズも、誇らしげに、コニカ伝統のレンズ名、ヘキサノンを名乗っている。35mmフィルム換算で39〜117mm相当だった。当時のデジカメとしては普通というべき3倍ズームで、フィルムよりもはるかに小さな撮像素子に対して、これより広角側を作ることは、当時のレンズ設計では難しかった。

外装はステンレスで、ずっしりと重く、専用リチウム電池込みで230グラムある。カメラの大きさは94×30×56mm(幅×奥行き×高さ)。同時代のリコーのデジカメなどと比べて厚い。コニカとしては、久々の高級機ということで、携帯性よりも、内容の充実を目指して、舞い上がっていたのであろう。

レンズやファインダー部分はステンレス製のスライドカバーで覆われるようになっていて、これがメインスイッチを兼ねている。

なお、写真の左下に見えるのは、光学ファインダーの対物レンズだ。(枠がはっきり見える特長を持つ)実像式のファインダーで、像のゆがみもなく、どても見えがいい。なお、下の背面写真のように、ファインダーの覗き窓のすぐ右側には赤と緑のLEDがあって、オートフォーカスの合焦と、低速シャッターの手ブレ警告(や内蔵フラッシュの充電中)を表示する。なお、このころのデジカメには、手ブレ補正は入っていないのが普通だった。

いまのコンパクトデジカメは光学ファインダーがないのが当たり前になった。メーカーからいえば、レンズのズームと同調してファインダーの視野を変える光学ズームファインダーは、作る手間もコストもかかる厄介なものだ。しかも、ファインダーに、シャッタースピードや絞りやヒストグラムなどの、カメラの情報が表示できるわけではない。

メーカーから見れば、カメラの背面いっぱいになるタッチパネル付きの大型の液晶をつけて、あとはソフトウェアですべてが解決するほうが、はるかに簡単でコストが安い時代になってしまったのである。

しかし、私の知人には、光学ファインダーのついたデジカメを探し求めている中年以降の人たちが多い。東京に住む火山学者のY先生と、札幌に住む地理学者のF先生が、(いまや数少ない)光学ファインダーのついた、まったく同じコンパクトデジカメを、おたがいに知らずに、ほとんど同時に買ったこともある。

近くのものが見えない老眼というだけではなく、額に押しつけることで、カメラブレが抑えられて、構図が安定するという昔からのカメラ術を捨てきれないのであろう。


じつは、このREVIO SD-510Zは、名機といわれている。ごく初期の高級デジカメとして、コニカが本腰を入れて作ったカメラだけに、レンズもよく、1/1.8インチという(2012年現在では)高級コンパクトデジカメなみに大きな撮像素子を使っているために、写りもいいからである。

もっとも、デジカメの時代になって、カメラ内部での画像加工の段階で、シャープネスをあげて、素人だましの、一見くっきりした絵作りの「化粧」をすることも、簡単になった。このカメラの画像も、やや、その気味がないわけではないが、素性の良さがうかがえる画像ではある。

ちなみに、いまのコンパクトデジカメは1/2.5インチの撮像素子というごく小さなものが標準になっている。他方、画素数は天井知らずに上がっている。つまり、画素あたりの面積が、きわめて小さくなっているのだ。物理学的に考えれば、光の波長にほとんど等しいような「小さな撮像素子と高解像度の組み合わせ」は、とても危なくて、使う気にはなれない。

メモリーカードは、SDカードと、(ソニーが推進していた)メモリースティックの両方が同時に挿せるようになっている。なお、最近ではメモリースティック(と、オリンパスのカメラなどが使っていたXDピクチャーカード)は絶滅し、ほとんどのデジカメが、安くて大容量ゆえ、SDカードで統一された(一部の高級デジタル一眼レフだけにはCFカードが残っている)。

しかし、当時、このカメラ(やIXY DIGITAL 400)に標準で付属していたSDカードの容量は、たった32MBだった。これでは、このカメラでの最良の画像だと、16枚しか撮れない。また、このほか、内部に2MBのメモリーを持っていたが、こちらは、たった1枚分の容量でしかない。当時はメモリーは、まだとても高価だったのである。

また、当時のデジカメでは当たり前とはいえ、背面の液晶(13万画素の1.5インチ低温ポリシリコンTFT液晶カラーモニター)はなんとも小さくて見えにくい。

角形の専用リチウムイオン電池を使い、液晶モニタ使用時で約100枚撮影可能だった。

さて、この「高価」カメラで、コニカは息を吹き返したのだろうか。

残念ながら、そんなことはなかった。デジカメはあっというまに低価格競争に巻き込まれ、高価なデジカメで儲けようというコニカの戦略は、雲散霧消してしまったのである。

それだけではない。名門コニカは、このカメラを売り出したその年には、ミノルタと合併して、コニカの名前も消えることになってしまったのである。つまり、このコニカ「REVIO SD-510Z」は、コニカ最後のカメラ、ということになる。
(なお、このカメラの3ヶ月後に「Konica DIGITAL 現場監督 DG-3Z」というデジカメを出したが、これはリコーからのOEMで、コニカ独自のカメラではない)。

このカメラは私の東京大学新聞時代の先輩で、機械技術者らしく、ずっとコニカファンだった滝澤睦夫さんがカメラが発売になった年に買ったが、その後、別のデジカメを買ったので使わなくなり、私のこのホームページのために、2012年にいただいたものだ。

いや、もっと正確に言えば、やはり先輩の小塚直正さんが自転車で転倒して頭を打ち、デジカメを壊してしまったときに、同情した滝澤さんから小塚のところに行ったものだった。だが、古くなった専用リチウム電池の劣化が激しくて、小塚氏によれば「フル充電してもカレンダー設定などをしていると、3枚しか撮れない」ということで、私のところにまわってきたものだ。

小塚氏によれば、5000円もするリチウム電池を更新する値段で、値崩れする一方のデジカメが買えてしまう時代なのである。
ここに消耗戦としかいいようのないデジカメの悲劇がある。


1-2:B級グルメならぬ”B級カメラ”の覇者、リコーが本領を発揮した「カメラ好きのための」初期デジカメ。Caplio R1。

コニカが、1-1の「REVIO SD-510Z」で、高価格・高品質のデジカメを出して、しばらくの”独走”を夢見ていたとき、じつは、デジカメの各メーカーでは、激しい追撃戦が始まっていた。そしてこの追撃戦は、日本企業お定まりの消耗戦へ続いていったのである。

これは、フィルムカメラの時代から、リコーフレックスやリコー35など、大衆向けに安くてよく写るカメラを出してきたリコーの、比較的初期のデジカメ、Caplio R1 だ。

(なお、フィルムカメラ時代に、リコーはR1という、別のカメラを出していた。30mmの広角レンズをつけた、とても薄型で、ユニークなカメラだった)。

大きさは100mm×25mm×55mm。出っ張りのない薄型だ。重さはニッケル水素の単三電池2本こみで230グラム(電池なしだと150グラム)と、小型軽量だ。

発売されたのは2004年9月。当時の希望小売価格は58,000円だった。1-1のコニカの高級デジカメの1年3ヶ月後であった。やはり、光学ズームファインダーを組み込んである。

レンズは35mmでは28mm相当の広角から135mm相当の望遠までの4.8倍のズーム。1-1にあるように、当時としては広角側は35mmどまりがほとんどの時代に、28mm相当まで広角側を拡げられたデジカメは、ほとんどなかった。リコーは、この広角を達成したのである。28mmと35mmは、実際に撮ってみると、かなり違う。たとえば、写す対象に踏み込めるかどうか、が違うのである。それゆえ、貴重なものだった。

また、カメラ好きのユーザーのために「ステップズーム」という機構を採用した。これは(カメラの設定によって)、28mm、35mm、50mm、85mm、135mmという35mmフィルムカメラ時代に標準だった交換レンズの5段階のそれぞれに固定可能なもので、35mmフィルムカメラのユーザーだった人たち向けのサービスだ。

撮像素子は1/2.5型CCD、有効画素数400万画素(総画素数419万画素)。この後のコンパクトデジカメの標準となった1/2.5型という小型のものだ。(なお、リコーはこのR1の前の2004年5月に、Caplio GXという、当時の希望小売価格70,000円という「高級」カメラを出している。これは上の1-1のコニカREVIO SD-510Zと同じ、1/1.8インチ、500万画素の撮像素子を持ち、28-85mm相当の3倍ズームレンズ、光学ファインダーをつけていた。コニカに遅れること11ヶ月で、確実な追撃を始めていたのである)。

このカメラのカメラ好きのユーザーを喜ばせる、そのほかの特長は、色の濃い、コダクローム調の発色と、広角側でレンズ前1cmまでの接写が出来ることだった。

また、電源として単三電池(2本)が使えるというのは大きな利点だった。専用リチウム電池よりもずっと大きくて重いが、世界のどこでも入手できるばかりではなく、1-1にあるように、数年で劣化してしまう数千円の専用リチウム電池を買わなくてもいいのは、とてもありがたい。(リコーCaplio GXも単三電池が使えた)。

しかし、残念ながら、単三電池が使えるデジカメは、年々、減っている。たとえば、デジタル一眼レフでは、2012年現在、K-30などのペンタックスPentaxの一部だけになってしまった。

容量がアルカリマンガン電池より大きな単三型のニッケル水素電池を使っても、専用リチウム電池よりは撮影枚数が少ないし、容積も重量も大きいので、設計者には嫌われるのである。

なお、このリコーデジカメは専用リチウム電池も使えた。それは、単三電池二本分の大きさを持ったリチウム電池だった。

背面の液晶は1,8インチで、やはり、なんとも小さくて実用にはならない。表示される文字も読みにくい。(リコーCaplio GXも同じだった)。

間抜けなことに、このR1は背面のボタンはクロームメッキの上にシルクプリントで、文字を載せてあった。そして、当たり前のことだが、写真のように、その文字は、間もなく消え去ってしまう。さすがに、この後のモデルでは改良した。

ところで、このCaplio R1の「寿命」は1年もなかった。わずか半年後の2005年3月、早くもCaplio R2にモデルチェンジしたのである。このR2は外形やレンズはR1と同じだが、光学ファインダーが省かれてしまっていた。背面液晶は2.5インチになったが、ソフトウェアだけをいじればいい液晶ファインダーは、明らかにコストダウンであろう。

しかし、そのCaplio R2も、わずか8ヶ月後の2005年11月にはCaplio R3になった。これは28mm〜200mmの光学7.1倍ズームレンズを取り付けたほか、手ブレ補正機能を搭載した。それとともに、大きな特長だった単三電池が使えなくなり、専用の充電式リチウム電池専用になったのである。光学ファインダーはもちろん、ない。

R1。R2。そしてR3と、半年ごとに新型を出していかなければ勝ち残れない、という消耗戦がすでに始まったのである。もちろん、市場価格も劇的に下がっていった。(リコーでいえば、R2以降は「希望小売価格」がなく「オープン価格」の表示になっている)。


1-3:そして家電メーカーの「巨人」パナソニックも、先行デジカメを十分研究したあと、追撃を始めました。比較的初期のDMC LC70。

このデジカメが発売になったのは2004年4月。当時の実売価格は37,000円(税込み)とされている。つまり、コニカの「REVIO SD-510Z」の発売から1年もたたないうちに、性能的には大差がなく、ほぼ半額というデジカメが、家電メーカーの「巨人」、パナソニック Panasonic から売り出されたのであった。

撮像素子は 1/2.5型CCDで、400万画素。レンズは3倍ズーム。光学ファインダーつき。画素数は「REVIO SD-510Z」に劣るが、66,000円の希望小売価格だった姉妹機「REVIO SD-410Z」と同じである。

ちなみにカメラはちがうが、この 1/2.5型CCD、400万画素でも、A4サイズはもちろん、A3サイズに引き伸ばしても、ほぼ十分の画質は確保できる(たとえば、この写真)。つまり、これ以降の800万画素だ1000万画素だという競争は、素人だましのスペックだけの、ほとんど意味のない競争だったのである。

しかも、パナソニックは、「家電」メーカーという異業種からの参入の不利なイメージを払拭すべく、ライカと提携して、大衆デジカメにも、ライカブランドのレンズを組み込んでいた。このカメラでは、「ライカDCバリオ・エルマリートレンズ」という35-105mm相当のレンズだった。「ライカ」「エルマリート」というかつて高級カメラの世界を風靡したレンズ名を冠して「ライカの威を借りる」戦略に出たのである。

なお、「エルマリート」とは、開放絞りがF 2.8のライカレンズの名称で、このカメラのズームレンズの場合はF2.8-4.9だから、名乗っていいことになる。実際、このレンズは解像力もよく、歪曲も少なく、よく写った。逆光時に写りこむゴースト・フレアも少ない。ちなみにF 2.0はズミクロン、F 1.4はズミルックスという名前がついている。

ブランド名に弱い日本人相手の商売としては、カメラ関係だけでも、カール・ツァイス、コンタックス、フォクトレンダーなどのドイツのブランド名が日本製のカメラやレンズにつけられていて、それぞれ成功を収めていたから、「家電メーカー」、パナソニックとしては、それなりの勝算があったのであろう。

なお、パナソニックは、その後、ライカブランドのデジカメのOEMもはじめた。パナソニックとほとんど同じカメラをずいぶん高い値段で売っていて、これも、「ライカ信者」たちの財布のヒモのゆるさを狙ったものである。

そして、このカメラも、上のリコー「Caplio R1」と同じように、単三電池が使えるようになっていた。それでも、電池やメモリーカード込みでの重さは207グラムと、小型軽量だった。

なお、当時のパナソニックははオキシライド電池という、アルカリマンガン電池よりも高価だが容量が大きいことを謳っていた電池(使い捨てで、充電はできない)を売り出したばかりだった。この電池の売上を増やしたい、というカメラ製造メーカー兼電池メーカーとしてのパナソニックの戦術もあったのかもしれない。

当時の背面液晶は、やはり小さい。1.5型で約11万画素である。

デジカメの設計としては「家電メーカー」らしく、「おまかせ撮影」の簡単設定がある一方で、意外にもカメラ好きが設計したのか、自分の好みの撮影設定が自由に出来たり、背面液晶にはヒストグラム(明るさのスペクトル)が表示されるなど、「初心者カメラ」を超える性能が盛り込まれていた。

たとえば、露出のラチチュード(寛容度)が狭い(画素あたりの面積が狭い)デジカメでは頻繁に使う露出補正は、右の写真のジョグダイヤルの上と下で、簡単に出来た。じつは、これほど簡単にはできないデジカメも多い。

つまり、「家電メーカー」でも、外部から参入して、それなりに勝ちを収めることができたのが、デジカメというものなのである。そのうえ、低コストで大量生産をするのは、家電メーカーの得意技なのである。

そして、家電メーカーは、変わり身も早い。このカメラ、DMC-LC70のわずか11ヶ月前の2003年5月にはDMC-LC33という、よく似た外形のカメラ(320万画素、3倍ズームレンズ、単三型電池が使用できる)を出していたし、その4ヶ月後、つまりこのカメラのたった7ヶ月前にはDMC-LC43という改良型(400万画素、3倍ズームレンズ、単三型電池が使用できる)を出していた。

これらはLC70とはデザインもちがう。こういった矢継ぎ早の製品の改良は家電メーカーがもっとも得意とするところだ。そして、たとえば、ひとつ前の機種(DMC-LC43)より、このカメラは電池の寿命が約45%もアップしたという。この種の小改良は、家電メーカーならではである。

つまり、競争相手を蹴落とすための戦術にはもともと長けていた他業種からの参入を迎えて、デジカメは、早くも2004年頃には、戦国時代に、突入していたのであった。

ちなみに、リコーのホームページには、過去のすべてのリコーカメラの系譜が出ているが、パナソニックのデジカメのホームページにはない。過去のカメラを「メーカーの歴史財産」と見るか、「使い捨ての消耗品」として見るか、のメーカーのちがいが、ここに現れている。

なお、このカメラの底部には、ハングルが書いてある。私はこのカメラを東京で中古で買ったのだが、生産地の中国から、どんな数奇な運命をたどって、日本まで来たのであろう。

【今後、記事を付け足します。まだ未完成の頁です】


その1:前編はこちらへ
その2:中編はこちらへ
その3:後編はこちらへ
その4:続編はこちらへ

その5:ディテール編はこちらへ

島村英紀が撮った海底地震計の現場
島村英紀が撮った写真の目次へ
島村英紀のホームページ・本文目次へ
島村英紀の「今月の写真」へ



inserted by FC2 system