島村英紀が撮ったシリーズ 「不器量な乗り物たち」その8:その他編の2

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1−1:「時速45q/hという無免許の制約」で、多くのマイクロカーが欧州を走っています。でも、さすがイタリア、デザインが違います。

たとえばフランスでは、二輪車でも四輪車でも、小さなエンジンのついた小型のものは、14歳以上ならば、免許不要で乗れる。

2008年現在だと、車体の重さ350kgまでの5.6馬力(出力4KW)のエンジン付き、時速45km/h以下の二人乗り四輪車までは、免許不要だ。このため、フランスには、洒落た小型車がある。

ところで、イタリア人が作ると、さらに洒落た車を作る。これがイタリア製の「Grecav(グレキャブ)」である。Gonzagaという会社が作った。

後部には大きく「45」の字が。これは時速45q以下で走るからね、という表示だ。

二人乗り。 車のサイズも、そしてヘッドライトも普通の車よりも小さい。ワイパーも一本だけ。全長は3mをちょっと切るほど。重さは350kgほどだ。

エンジンは500ccほどのディーゼル。最高速度は45km/hだが、25%の勾配の坂も上れる、と豪語している。なんと、サンルーフやアルミホイールまでついている。

よくまとまった、なんとも愛らしい形である。

駐車難の欧州の都会でも、この小ささを生かして、縦列駐車している車の間に「縦に」割り込んだり、この車のように、歩道に乗り上げて駐車することもできる。

「スマート Smart」の前にも、この種の全長が短い2人乗りの小型車は、欧州にはいくらでもあったのである。

(2012年秋、ルーマニア・ブカレストの路上で)


1-2:こちらも、アルゼンチンやメキシコと同じく「威厳のない」警察車両、ルーマニアで。

アルゼンチンの警察車両メキシコの警察車両のように、都会専用の「威厳のない」警察車両は、欧州にも生息している。

これは、ルーマニア・ブカレストにいた、警察の三輪車。前2輪で、前にサイレンやスピーカー、前輪のフェンダーの上に赤と青の点滅灯がついている。運転しているのは、右に立っている警察官。反射板を胸や腕やズボンなど、あちこちに着けた服を着ている。

しかし、威厳がないこと、おびただしい。この車に追いかけられても、どうみてもオモチャに追われているような気がするに違いない。

白バイのように、転倒することがないのが取り柄だろう。ブカレストは北緯47度。稚内よりも北にある。雪は11月から降る。

また、誰かを追いかけるときには、白バイのように、スタンドを立てて・・という動作がない分だけ、有利かもしれない。

(2012年秋、ルーマニア・ブカレストの路上で)


1-3:これは、別のミニカー。日本のミニバンを小さくしたような形で、それなりに、まとまっているデザインですが、面白味はありません。

これは英国の「マイクロカー」という会社が作った「MC-1」というモデルだ。 このモデルは2004年から2008年まで作られていた。

全長2800mm、全幅1493mmで、2人乗り(モデルによっては、もっと長くて4人乗りもある)。つまり日本の軽自動車よりちょっと小型の車である。

エンジンは500cc、ガソリンエンジンが基本だが、ディーゼルも選べる。なお、カタログによれば、ディーゼルは「ヤンマー」製とある。日本の農機具用のエンジンを流用しているのであろうか。

最高速度は、ガソリンエンジンの車だと115km/hだと謳われている。つまり、この車は「車体の重さ350kgまでの5.6馬力(出力4KW)のエンジン付き、時速45km/h以下の二人乗り四輪車までは、免許不要」という枠を超える車だ。しかし、この規制枠は欧州でも国によってなくなりつつあり、また、他方、ちょっとでも安い小型の車を買いたい、燃費も小さいほどいい、という人たち向けの大衆車なのである。

また、車体の短さを生かして、駐車にも有利である。

ワイパーは一本だが、ヘッドライトも普通車のサイズで、運転席やドアポケットも現代の車風に洗練されている。

トランスミッションはマニュアルではなく、CVT(ベルト駆動式の無段階自動変速機)だ。

右ハンドルの英国で作られて、左ハンドルの欧州諸国にも輸出している車だから、速度計などは写真の右手、つまり車体の中央にある。つまりセンターメーターである。

ドアミラーの調節は電動ではなく、車内に出ているレバーで機械的に行う。 もっともこれは、欧州の小型車では当たり前のことだ。日本のように、軽自動車でさえ、電動ウィンドウ、電動ミラーというへんにぜいたくな無駄とは違う、質実なものなのだ。

(2012年秋、ルーマニア・ブカレストの路上で)


1-4:そして、中世と現代が同居する国、ルーマニアでは、究極のエコ乗り物がありました。化石燃料を消費せず、排気ガスも出しません。

ルーマニアでは、中世と現代が同居している、と言われる。たしかに、12世紀に作られたドイツ人の美しい町がそのまま残っていたり、砦(要塞)と一体になった教会 (Fortified Church) が各地に残っていたり、そして、写真のように、多くの馬車も、堂々と道を走っている。

じつは、写真の左の壁は、その教会を守るための砦の一部だ。1414年に作られてから701年を祝う文字が書かれている。

この砦に守られた教会 (Fortified Evangelical Church) は砦の内部に脱穀機や食料庫もあり、外敵の攻撃に耐えられるようになっている。蒙古やトルコの侵略を何度も受けてきたルーマニアならではの備えなのである。

じつは、この教会はユネスコの世界遺産なのだが、ここほど、観光客が来ない世界遺産はあるまい。

観光客目当てのいじましい世界遺産登録競争が激しい日本では考えられないことだが、ここシビウ県バレア・ビーラー村(Valea Viilor Village)は、都会から100kmも離れているうえに、なんの公共交通機関もない。

私が行ったときはルーマニア人の研究者に自家用車で案内してもらったのだが、この教会は閉まっていた。カギを預かっている農夫が、たまたま家にいるときには、依頼すれば開けてくれるという世界遺産なのだ。

幸い、私たちはカギを開けてもらって、内部を見たり、ごく狭い階段と梯子を上がって、右の写真にある塔に登ることが出来た。

塔の最上部には鐘がいくつもあるほか、塔そのものは外敵の見張りをするためのものでもある。塔から見える、いまの村は平和そのものだが、この700年の間には、何度も緊張のときがあったに違いない。

協会の内部は、質素なものだが、それでも教会の後部には大きなパイプオルガンが備えられている。

ここトランシルバニアは、ドイツ人が拓いた土地で、その後、ドイツ人やハンガリー人が、それぞれの文化を保ったまま暮らしてきたところだ。この教会もドイツ風であり、教会の祭りには、近隣の人たちがドイツ風の衣装で集う。

しかし、ドイツ系の人々は、チャウシェスク時代の末期には、大変な目に遭っている。

ここに限らず、ルーマニアにはかなりのドイツ人が少数民族として何世紀も暮らしてきているが、チャウシェスク時代には、たいへんな迫害を受け、約20万円(という当時の彼らにとっては大変な大金)を払わないと、出国できなかった。そして、出国すれば、家財は差し押さえられてしまった。

他方、ハンガリー系の人々は、同じ東欧圏ゆえ、はるかに楽に、ハンガリーに親戚を訪ねたりすることができた。

ところで、この究極のエコ乗り物は。写真のようにトラックにもなれば、バスにもなる。いまは、収穫の終わったトウモロコシの茎を冬の間の家畜の飼料として、農家に運んでいるところだ。

当の馬はどう思っているかわからないが、おしゃれな赤い飾りが付いている。

御者?「荷物」の上からわずかに青い帽子が見えるだろうか。たとえ前がよく見えなくても、彼にとっては、このくらいの荷物を、畑から家まで運ぶのには勝手知った道なのである。嵩のわりに荷は軽いから、馬の足取りも軽い。

そして、もちろん、道路の上には大量の馬糞が残される。かつての札幌でも道路上の馬糞が、特有の北西の強い風に飛ばされていた。「馬糞風」と言われたものだ。

(2012年秋、ルーマニア、ブカレストの北方250kmのトランシルバニアの路上で)


2-1:ルーマニアの「国産車」の系譜

1989年にチャウシェスク政権が倒れる「革命」まで、ルーマニアは東欧の社会主義国のひとつだった。

2007年からはEUの一員になったが、同じかつての東欧圏でも、経済的な発展を遂げて、国民生活も安定に向かっているポーランドやチェコとちがって、ルーマニアの人々の生活は、チャウシェスク時代よりは、むしろ苦しくなっている面もある。

写真のような、ブカレストの美しい建物と裏腹に、かつての東欧圏唯一のラテン国家だったルーマニアでは、ラテンの明るさが人々の顔から消えている。

その社会主義の時代、ルーマニアでは、1966年に、IAPという自動車会社が作られた。

そして、そこではフランスのルノー車のノックダウン(現地組み立て)、そして、その後、1972年からは国産化が行われていた。それが、この写真の「ダチア Dacia」である。ダチアは自動車メーカーの名前でもある。

ダチアとは、ルーマニアの昔の名前で、由緒ある名前だ。

ダチアは、はじめは「ルノー8」をノックダウン(現地組み立て)した「ダチア1100」を1967年に作りはじめた。この車は、リアエンジン・リアドライブ(RR。後輪駆動)の車だ。角張った、それなりに精悍でまとまった形をしていた。

しかし、この「ダチア1100」は短期間で終わり製造台数も4万台あまりにすぎなかった。

その後、1969年からは「ルノー12」が元である、この写真の「ダチア1300」が作られるようになった。これは、FF(フロントエンジン、フロントドライブ=前輪駆動)の4ドアのセダンである。お尻(後部トランク)が下がっている、かなり不格好な車だ。ボンネットも、前方視界はいいのだろうが、無理に前下がりになった形だ。

フランスの車のなかには、実質を尊んで、醜さをあえて隠さないものもある。かつての「ルノー4」や、この「ルノー12」がその例だ。シトロエン2CVも、そうかもしれない。

【2013年8月に追記】 なお、この「ルノー12」は、その前後のルノー、たとえば「ルノー4」や「ルノー5」や「ルノー16」や「ルノー19」や「ルノー21」のように日本に輸入されたものではない。また、たとえば欧州車の紹介に熱心だった『カーグラフィック(CAR GRAPHIC)誌』にも注目されなかった。一部の日本のマニアに熱狂的な支持を受けた「ルノー4」と同じように質素さと醜さは持ちながらも、大きめの車体を持った「ぜいたくさ」は日本のフランス車の崇拝者たちには理解されなかったのである。


この「ダチア1300」は全長4,340 mm、幅は1,636 mm、重さは930-960kgだった。エンジンは1.2〜1.4リットルのガソリンエンジン。タイヤは3本のボルトで止める。

「ダチア1300」は、1969年から1983年までという長い間、作られた。また東欧諸国にも輸出された。

長い間にわたって約200万台という多数の車が作られたため、「ダチア1300」は、最近は数は減ったというが、2012年現在も、とくに地方で、まだ多く走っている。

しかし、もともとの設計が古かったために、最後のモデルまで、エアコンもABSも付かなかった。そのかわり、ごく簡単なエンジンなので、整備しやすく、燃費も悪くはなかった。

製造された14年間に、外装では、いろいろ細かい変更が行われている。いちばん古い「ダチア1300」はヘッドライトが四つ目だった。

その後、上の写真(後期モデル)や、右の写真(中期モデル)のような、いろいろなモデルが作られている。

ヘッドライトは二つ目になったが、その形や、ウィンカーランプの形や位置、ラジエターグリル、バンパーなどが、次々に変えられているが、所詮、全体の形が不格好なのは、隠しようもない。

この「ダチア」のルノー勢ばかりではなく、社会主義時代のルーマニアでは、オルチット(ORTCIT)という、フランスのシトロエン・アクセル(Axel)のノックダウンの車を1981年から作っていた。

このクルマはシトロエン・Vixa(ビザ)をベースにつくられた小型のクルマで、2ドアのハッチバック。つまり「ダチア1300」よりは格下の安い車だった。

外形はシトロエン・ビザに似ていたが、エンジンは、安くするためだろう、水冷ではなく、かつてのシトロエンGS用の水平対向・空冷エンジンが搭載されていた。

ちなみに、シトロエンGSは日本にも輸入されていて、FFの名車であった。トランクは驚くほど広く、またその床も低かった。とても安い中古が出ていて、私も、買おうかどうか、大いに迷ったことがある。

しかし、2012年現在、このオルチットは一台も見なかった。販売台数も少なく、そのうえ耐久性にも劣っていたのかもしれない。
一方、ダチアは、その後1980年代半ばにルノーと離れ、「ダチア1300」を改良すべく、今度はルーマニア独自の設計の車が計画されていた。

しかし、1989年の「革命」とその後の混乱で、車の製造は遅れに遅れ、結局、後継モデル「ダチア・ノバ」が世に出たのは1994年になってからだった。

しかしその後、ルーマニアの他の企業と同様、ダチアの業績は悪化の一途をたどった。石炭採掘も鉄鋼製造も、ほとんど壊滅状態になったのであった。

そして息の根が止まる寸前に、1998年に、今度はルノーの傘下に入ることで経営再建を図ることになった。かつての合弁ではなく、ルノーの配下になったのである。

そして、ルノーから「ルノー・クリオ」エンジンの供給を受け、2003年から製造が始まったのが、上の写真の「ダチア・ソレンザ」であった。やはりFFである。

なお、ハッチバックのルノー・クリオは日本にも輸入されていたが、あいにくとホンダが「クリオ」の商標権をもっていたために、クリオの名前では売れず、「ルーテシア」の名前になっていた。

なお、「ルーテシア」はパリの昔の名前「ルテティア」からとったものだ。

右の写真は、その「ダチア・ソレンザ」の後部。これは1.5リットルのディーゼルエンジンのモデルである。

さすがに「ダチア1300」よりは近代化されているが、なんの変哲もない、平凡なデザインである。

他方、ORTCITのメーカーAutomobile Craiovaは、もともとはルーマニアとシトロエンの合弁会社だったが、こちらはやはり「革命」後の1991年に、シトロエンが、見限ったか、手を引いてしまった。

このため、この自動車メーカーはORTCITの製造をやめ、韓国大宇と手を組んだ。

さらにその後メーカーは、フォード傘下に入るなど、二転三転して、いまはフォードブランドの小型の安物自動車を細々と作っている。

ところで、この「ダチア・ソレンザ」は、ほとんど売れなかった。全部で4万台ほどだ。それには、2004年から「ダチア・ロガン」(下の写真)という新型車の製造が始まって、毎年10〜23万台も作るようになったためであった。

じつはルノーは、この車に賭ける。世界戦略を持っていた。

つまり、「ダチア・ロガン (Logan)」は、ルノーがルーマニアの安い労働力と、その割には高い労働者の技術力を使って、世界に売るための、安く作る世界戦略車として位置づけたものだったからだ。

その「ロガン」は、当初、5000ユーロ(2012年現在、約50万円)という、途方もなく安い車を目指していた。

実際には最低の売値は東欧向けで6000ユーロになったが、それでも、圧倒的な安さだった。もっとも西欧の安全基準に合致するためのロガンは7500ユーロである。しかし、それでも安い。

このロガンは、ルノーの基本シャーシー(プラットフォーム)である「B0」を利用し、その上に、エンジン、ギアボックス、内装など、他のルノー車の部品を、かなりの程度流用することによって、安い車を作っている。なお、このB0シャーシーは、もともと日産自動車とルノーが共同で開発したBプラットフォームをベースに開発されたものだ。

このロガンの全長は4,250mm、高さが1,525mmと比較的背が高いので、乗員がアップライトに座れ、車内が広い。 幅は1,735mmある。

エンジンは1.4〜1.6リットルのガソリン、あるいは1.5〜1.6リットルのディーゼルを載せている。

かくて、上の写真のように、ルーマニアのタクシーは、ほとんどこのロガン一色になっている。これはブカレスト中心部のロマーナ広場で撮った。

現在、このロガンはルーマニアから、東欧各国や、タヒチやニューカレドニアやガダルーペ島などのフランスの海外県も含むフランスや、ドイツ、スペイン、ポルトガルなどの西欧諸国へ輸出されている。

【追記】”自動車先進国”のドイツでさえ、2002年の導入以来、2011年までに24万台も販売したほど、成功した
。「安くても使える」という強みを生かしたのである。

つまり、日本でも日産の資産を売り払うことで黒字にした遣り手、ルノーのカルロス・ゴーンの戦略は、ここでも、うまく当たったというべきであろう。

それだけではなく、ロガンは、ロシア、コロンビア、モロッコ、インドでも現地生産されるようになっていて、近年中にイラン、中華人民共和国、マレーシアでも生産が始まるといわれる。すでにイランでは、2007年から「ルノー・トンダル90」 (Renault Tondar 90) として販売されている。米国主導の経済制裁をものともしない、フランスのたくましさ、したたかさが、ここにもある。

しかし、日本の製造メーカーが、はじめ中国やインドネシア、そしてこれらの国の労賃が高くなると、ベトナム、バングラデシュ、そしてビルマを次々に狙っているのと同じで、その国を富ませるのではなく、その国から搾取することを第一に考えているのと同じことが、このルーマニアにも起きなければいいのだが。

ところで、上の写真のブカレストのタクシーに見られるように、「ダチア1300」と同じように、「ロガン」でも、次々にいろいろなモデルを出している。バンパー、ラジエターグリルなどがちがう。


ところで、ブカレストのタクシーは、右上の写真のように、距離あたりの料金が、でかでかと前扉に掲げてある。この車はkmあたり1.39レイ(1レイは2012年で22円だから、kmあたり30円になる)とある。この料金のタクシーがいちばん多いが、なかには、1.40Lei/kmとか、3.5Lei/kmのものもある。

1.39と1.40。この微妙な差はなんだろう。消費者は、このわずかな差でタクシーを選ぶのだろうか。ちなみに、この二種のタクシーの車種も外観や内装も、変わらない。不思議である。

一方、3.5Lei/kmのタクシーは、ロガン以外の欧州車だったり、ロガンでもエアコンの着いた新車だったりして、それなりに違うし、タクシーがたむろしている場所も、この写真のような大衆が集まる広場ではなくて、外資系の高級ホテルの前であることが多い。

なお、ドア上部のチェッカーマークは、ちゃんとしたタクシーメーターがついた、認可タクシーであることを示している。少し前までは、怪しげな白タクも多かったが、2012年には、だいぶん、減っていた。

2009年からはダチアは、左の写真のようなSUV、「ダチア・ロガン・ダスター(Duster)」を売り出した。これは同じB0プラットフォームを使った車で、 FFモデルと4WD(全輪駆動)モデルがある。

全長は4,315mm、エンジンは1.6リットルのガソリンか、1.5リットルのディーゼルを載せている。

このうち4WDは、日産・エクストレイルやルノー・コレオスなどと同じ4WDシステム、「オールモード4×4-i」を使っている。つまり、部品やシステムの共通化で、こうしてコストを下げているのである。

ダスターは、ルノーのルーマニア工場で生産されている。そして欧州主要国、ウクライナ、中東、アフリカへも輸出されている。

なお、多くの国では ダチアという名前に馴染みがないために、「ルノー・ダスター」として売られている。

なお、後方は、社会主義時代に建てられたブカレスト市内の15階建てほどのマンション。粗悪な造りなので、痛みが激しい。なお、近年、断熱材を外から張り付けるなどの、再生工事も行われていた。なお、ブカレストは北緯47度。日本でいえば稚内より北だ。冬はとても寒い。

しかし、この種の工事は居住者負担になるために、この負担が払えず、なかには、断熱材がまだらに張り付けられているマンションもあった。「革命」後は、ルーマニアでも、ほとんどの住宅が個人所有になっている。

(写真はすべて2012年秋、ルーマニア・ブカレストの路上で)


3-1:チェコの国産車の系譜

ルーマニアとちがって、チェコでの自動車生産の歴史は長く、また「自前の」国産車を作り続けてきた。

戦前には、タトラという大型の先進的な乗用車を作っていた。 当時としては、世界でもっともすぐれた自動車だった。

この車は1930年のものだ。その当時は、乗用車は決して大衆のものではなかった。「高級車」しかなかった時代だったのである。

しかし、チェコの自動車生産は、第二次世界大戦後も優れたものを産み続けた。戦後は「チェコスロバキア」として、ソ連と強い結びつきを持った社会主義国家だったが、しばしばソ連のコントロールや干渉を受けながらも、戦後の社会主義諸国の中で、いちばん優れた車を作っていた。

なお、当時の社会主義国では、ポーランドも、フィアットの小さなクルマを作っていた。

また、ソ連も、自前の貧弱な大衆車ザポロージェッツや、中型セダンのチャイカ、米国車の真似をした共産党高級幹部用の見かけだけの「高級」車、ジルを作っていた。チャイカはたとえば研究所の公用車として使われていた。私がソ連を何度か訪問したときに、各研究所で送迎に乗せてくれたのは、もっぱらチャイカだった。

しかし、これらの「純」ソ連製の車の評判は芳しくなく、ソ連では、フィアットのセダン「
124」を導入したラーダを作りはじめた。ラーダはFR(フロントエンジン、リアドライブ)で、全長 4030mm、全幅 1625mm、高さは1420mmほどの車である。

ラーダは、はじめはジグリと言われ、1970年から作られて、安価なゆえ、西欧など各国にも輸出された。「本家」のフィアット124は1966年に製造開始され、1974年に製造を終えて次のモデルになっていたが、ラーダは、その後もソ連、そしてロシアで作り続けられた。ほかのソ連製の車よりはましだったために、その累積生産台数は1400万台を超えるという膨大なものだった。

だが、私はノルウェーでレンタカーのラーダに乗って、往生したことがある。形はフィアット124そのままで清楚だし、視界もよかったのだが、ハンドルはアシストなしでとても重いし、キャスターアクションが悪いのかハンドルの戻りは悪いし、ロードホールディングも悪かった。そのうえ、ボディーの剛性も低かった。つまり西欧の国で使うのには「安さ」以外の取り柄がなにもない車だった。

なお、フィアット124は、当時のイタリア政府の外交政策もあって、1960年代から1970年代にかけて、各国で、それぞれちがった名前がつけられていたが、ソ連だけではなく、インド、トルコ、ブルガリア、スペイン、韓国でも作られた。(エジプトでは21世紀になってから生産が始まった。)1970年代当時としては世界的な大量生産車だったわけである。

チェコスロバキアで作られていた車のひとつが、この写真の「シュコダ105」である。1976年から、1990年まで作られて、社会主義諸国に輸出されたほか、当時の西欧諸国にも数多く輸出された。というのも、大きさや車格のわりに、とても安い車だったからだ。なお、外形は同じだが、エンジンのちがいで105/120/125 という違うモデルがある。

長さは4,160 - 4,200 mm、幅は 1,595 - 1,610 mm、高さは 1,400 mm。エンジンは1.05(54馬力) - 1.2リットルのガソリンエンジンだ。

車としては普通のセダンに見えるが、じつは、この車はRR(リアエンジン、リアドライブ)である。

いまのようにFF(フロントエンジン、フロントドライブ)が小型車の標準になる以前は、RRの小型車が多かった。たとえば名車フィアット500も、RRだった。

エンジンやトランスミッションなどのドライブトレインを車体の後部にまとめてしまうことによって、車室が広くとれるほか、駆動輪の上に重いエンジンがあるので、悪路や登坂時にも駆動輪がスリップしにくいという利点があった。

各国とも、舗装していない悪路が多かった時代には、これは貴重な利点だった。

しかし一方で、急カーブを切ったときに「ファイナル・オーバーステア」という、普通の運転者では制御できない状態に陥ってしまうことがあった。たとえばスポーツカーのポルシェ356や、同じくポルシェ911の初期のモデルでは、とくに顕著だった。

また、米国シボレーの大衆車、コルベアもRRで、有名な弁護士、ラルフ・ネーダーにその危険性を指摘されて大きな問題になり、最終的には生産中止になった。 コルベアの場合には、エンジンを軽くしようとアルミ製にしていたとはいえ、重い6気筒エンジンを車体後部に積んでいたから、この重さに振り回されてしまうファイナル・オーバーステアが、どうしても起きてしまうのだった。

もちろん、おとなしく運転していれば、この現象は出ない。

この欠点にもかかわらず、シュコダは、圧倒的に安いことと、RRで悪路に強いことで、多くの国でよく売れた車だった。

しかし、このシュコダにはもうひとつの欠点があった、それは、エンジンが後ろにあるのに、その水冷エンジンの冷却水を冷やすためのラジエターが、車体最前部にあったことだ。このため、長い配管を車体後部から前部まで通さねばならず、その配管の途中で泡が生じてしまって冷却できなくなって、オーバーヒートすることが、よくあったからである。

ラジエターが前に置いたために、普通のRRには見えなかったわけである。つまり、無理をしてスリーボックスセダン(普通のセダン)の恰好をしたRRなのである。「普通の」スリーボックスセダンがほしい大衆に媚びたデザインと言うべきであろう。

この写真を撮ったのは、製造後40年ほど経ったあとだ。そのせいで、塗装はかなり劣化して、しかも素人が直している。しかし、まだ現役だった。

1980年代の終わりから1990年代のはじめにかけて、社会主義が各国で崩壊してしまったあと、シュコダには激変が訪れた。自前の車では商売ができなくなり、1991年にドイツ・フォルクスワーゲングループの配下に入ったのである。

その意味では、上の2-1のルーマニアのダチアがルノー配下に入ったのと同じ道を辿った。つまり、旧社会主義諸国の自動車メーカーは、どこも自立できなかったのである。

いまは、たとえばシュコダは「オクタヴィア」というセダン(厳密にいえば、セダンに見えるが、5ドアハッチバック)とワゴンを作って、欧州各国に輸出して、好評を博している。プラットフォーム(車台)などはフォルクスワーゲン・ゴルフと共通だが、最近のトヨタやメルセデスやBMWのように、獰猛で品がないデザインではなく、独自の、品がいいデザインが特長だ。

じつはこの「オクタヴィア」はシュコダが1959-1971年に作っていた乗用車の名前である。「オクト」は8。製造会社が戦後国営化されて8番目の車、ということで名づけられた。もちろん、いまのオクタヴィアとは似ても似つかない。

このほか、シュコダは「ファビア」も作っている。こちらはオクタヴィアよりはやや小型で、フォルクスワーゲン・ルポと共通のプラットフォームを使っている。

このオクタヴィアもフォビアも、元になったフォルクスワーゲンよりも安価なこともあり、欧州各国に輸出されている。安価な理由の多くは、チェコの労賃が安いことにある。つまり、構図は上の2-1のルーマニアのロガンと同じなのである。

【追記】 ドイツでのシュコダの輸入は、2002年の8万台から2011年の14万台までに増えた。しかし、フォルクスワーゲンでは、さらに労賃の安いブラジルでの、「GOL、ゴール」など別のフォルクスワーゲン車の生産をはじめた。
  かつては労賃が安かったが上がってきた中国での生産から、さらに安い労賃の東南アジアを転々としたあげくに、バングラデシュで生産をはじめたユニクロと、構図は同じなのである。


(写真は2012年秋、ルーマニア・ブカレストの路上で)


4-1:車についての規制、お国ぶり

ドイツで見た、乗用車後部に自転車を積むための道具。写真に見られるように、車の後部に自転車2台を載せられるようになっている。これで自転車を持っていけば、郊外や森の中へ行ってから、自転車で走り回ることが出来る。休日に郊外へ行って時間を過ごすことが好きなドイツ人らしい道具である。

乗用車の屋根の上に自転車を積む道具はある。しかし、屋根の上に自転車を持ち上げて固定するのはなかなかの労働だし、車の運転にも気をつかわなければならない。

この道具には、「親」自動車と同じように、ランプ類とナンバープレートが着いている。ランプは右折や左折のためのウィンカーランプ、ブレーキランプ、そして車が後退するときのためのバックアップランプまで備わっている。つまり車の安全走行のための装置はちゃんと備わっているのだ。

さて、この道具が日本で許可されるだろうか。

だめに違いない。旧運輸省の官僚や警察が、なにかといえば規制をかける日本では、車の長さを変えたり、車の外部になにかを付け足すことを禁止してしまうからだ。人々が郊外で楽しむため、という動機よりは、しきたりや利権や許認可権ばかりしか考えない日本の官僚や警察のもとでは、この種の道具、そして人々の楽しみを奪うことがよく行われるのである。

ドイツになくて日本にはある規制は別にもある。電車や列車に自転車を乗せる規制だ。ドイツでは大都市の電車や地下鉄を含めて、ごく普通に、自転車をそのまま持ち込める。

しかし、日本ではたとえ空いている郊外電車や田舎の列車でも自転車を持ち込むことは禁止されている。載せるとしたら、自転車を分解して、すべてを巨大な袋(これ専用の袋があり、私も持っているが、輪行袋という名が付いている)
に入れたときだけだ。この規制がどれだけ自転車の楽しみをそこなってしまっているのか、日本の規制当局は考えたこともあるまい。

(写真は2004年、ドイツ・ブレーメン市の路上で)


4-2:いかにも安物のオースチンの廉価版、A30

日本で「ちゃんとした」国産車が作られるようになったのは、欧州の車のノックダウン生産を始めてからである。日産は英国のオースチンA50を1955年から1960年までノックダウン方式で国産化して多くを学び、その後の1959年から作ったブルーバードは、国産化していたオースチンA50とよく似ていた。

また、日野自動車はフランス・ルノーのノックダウン生産を、またいすゞ自動車は英国・ヒルマンのノックダウン生産をほぼ同時期に行っていた。

これは、1952年から1954年まで作られた「オースチン A40 サマーセット」の廉価版である「オースチンA30」。日本には正規には輸入されなかったが、 A40 サマーセットを買えない人たちのために作られた。ニュージーランドにも大量に輸入された。

いかにも安く作った、という車で、A40 サマーセットと似せているのが哀しい。1952年から1956年まで作られた。 A40 サマーセットが4026mmの全長だったのに、こちらは3467mmの全長で、幅は1600mmに対して1395mmしかなかった。このため、いかにも幅が狭く、その割には背が高く不安定に見える。エンジンも小さく、A40 サマーセットが直4 OHV 1200 cc だったのと比べて、803 cc と非力だった。

横に立っているのはサウスウォード自動車博物館に連れていってくれたニュージーランドの高名な地震学者、ロイ・ディブル博士。南極科学者でもある。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


4-3:「戦勝国」航空機メーカーが作った高級英国車、ブリストル401

ニュージーランドにも、上の4-2のような安価な車だけが入っていたわけではない。これは1948-1953年に作られていた高級車、英国製のブリストル 401という車だ。

第二次世界大戦の敗戦国、ドイツや日本では飛行機の製造が禁止され、飛行機メーカーの技術者たちは路頭に迷った。だが、
まだ、貧しい車がようやく作られはじめたのとちがって、戦勝国のひとつである英国では、貧しい車もあったが、航空機メーカーが生き残って、このような高級車も作られていた。

ブリストルとは有名な英国の航空機メーカーだ。その系列会社が作ったもので、エンジンは直列6気筒OHVで1971 cc だった。全長は4864 mm、全幅は1702 mm、全高は1524 mmという当時としては大型のもので、5人乗りの内装も高級車然としていた。

ラジエターグリルは、まるでBMWのようだ。この種のラジエターグリルがBMWの専売特許ではなかったことがわかる。

航空機メーカーらしく、空気抵抗Cdは 0.36を達成していた。ドアハンドルまで埋込にして、当時としては抜群の空気抵抗の低さを誇った。

それにしても奇妙なデザインなのは、ヘッドライトが「寄り目」になっていることで、夜間の対向車には幅が分からない。外側にある補助灯をつけてもなお、全幅のほうがはるかに大きい。フロントフェンダーに人が寝そべられるほど大きいのも、高級化しよう、空気抵抗を小さくしようとして全体のバランスを失った姿が見て取れる。

じつは、この「寄り目」は先代400(1947-1950年に製造)からのものだが、この401になって、さらに内側に寄った。さすがに、寄りすぎと思ったのだろう、先代にはなかった外側の補助灯を追加したのが、この401なのである。

この401は税金込みで3532ポンドと高価だったために、600台あまりしか売れなかった。姉妹車の402はカブリオレだったが、こちらは20台あまりしか作られなかった。英国自動車誌のテストによれば、401の最高速度は157 km/h、0-60 mph (97 km/h)の加速は15秒、当時としては群を抜いた俊足だった。燃費は7.4km/litreだった。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200


4-4:短命に終わった英国車、ジョウェット・ジュピター

雨後の筍のように小規模の自動車メーカーが輩出した戦後の英国だが、その多くは短命に終わった。このジョウェット・ジュピター(Jowett Jupiter)もその一つだった。たとえ一時的に成功した自動車を売り出しても、その後、他メーカーが、安くていい自動車を出すようになると、とたんに売れなくなってしまったのである。

これはジョウェット・ジュピターというメーカーが作ったオープンカー。2座席のオープンカーである。全長は 4100 mm、全幅は 1600 mm、車重は953kgだった。

上のブリストル 401と似て、ヘッドライトが寄り目になっているのは当時の英国車に多い特徴だが、外側に着いている小さな補助灯のおかげで、夜間の対向車からは、かろうじて幅が分かる。


このモデルが作られたのは1950-1954年という短い間で、僅か900台が作られただけだった。

写真で見ると、前部ボンネットが開く隙間がない。これは前部の全体がガバッと上に跳ね上がる仕組みだったせいだ。いわば、レーシングカーの仕組みである。エンジンは水平対向の 1486 cc、ギヤボックスは4段のマニュアルだった。エンジンの圧縮比を当時としては高い8.0にまで上げて、60馬力を稼ぎ出していた。

公称最高速度は 137 km/h、0-50 mph の加速は 11.7 秒とされていて、英国の権威ある自動車雑誌のテストでは 0-60 mph (97 km/h) が 18.0 秒だった。いずれにせよ、当時としては俊足である。燃費は8.8km/litreがテスト値だった。

この車の値段は 1086ポンド(税込)で、たとえば同時代のジャガー Jaguar XK120 の 1263ポンド(税込)と比べて安価だった。この種の車としてはジャガーは安価を売り物にしていたから、それよりも安かったことになる。

写真に見られるように、品のいいたたずまいだ。ラジエターグリルが3つに分かれているのが
ジョウェット・ジュピターの特徴だ。このようにラジエターグリルの形で、その車の特徴を出すことは、ドイツのBMWやアウディ、(いまや中国資本の配下に入ってしまった、元スウェーデンの)ボルボなどで行われている。日本のトヨタ・レクサスもこれらを真似して、特徴を出そうとしたが、あいにくと噛みつきそうな品の悪いものになってしまった。

ジョウェット・ジュピターというメーカーは10年ほどでこの世から消え去った短命の自動車メーカーだった。小さな自動車メーカーだったので、もっぱら米国製のエンジンを輸入して、自社の車に組み込んでいた。これは英国の小さなメーカーがよくやる手法である。

(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200


5-1:空港で”もっとも目立ちたくない”車

空港のなかで働く、さまざまな車がある。

その多くは、機能や幅や装備の面からの制約のために一般道を走れないもので、空港の中だけで走り回って一生を終える。たとえば、航空機からターミナルビルまで乗客を運ぶバスは、一般道を走るにはあまりに幅が広すぎる大型のものが使われている。

また飛行機に乗客が乗り降りするためのタラップカーも、もちろん一般道は走れない。

いろいろ単能の車が多いなかでも、この写真の車はきわめて特殊なものだ。空港には必ず必要だが、なるべく乗客には目立ちたくない車にちがいない。

そう。これは飛行機のトイレに貯めた汚物や汚水を吸い出して処理場に運ぶための専用車なのである。つまり、昔の日本では至るところに走っていたバキュームカーと同じものなのだ。

運転席の右側に付いている太いパイプを飛行機の腹部にある専用の接続口につないで、吸い出した汚物や汚水を車の後部にあるタンクに入れる。

機能としてはバキュームカーと同じものだ。しかし、まさかバキュームカーと同じ色や形にするわけにもいかなかったのだろう。タンクは長方体だし、この車の狙い通り、この車を眼にしても何の車か分からない乗客も多いに違いない。

飛行機のトイレは、一般の人が思っているよりもずっと高度な技術を駆使して作られている高価なものだ。それゆえ航空会社にしてみると、いかにトイレ関係のコストを切りつめるかが大きな課題になっている。

そもそも、乗客何人当たりにひとつのトイレを設置するかも重要な経営判断だ。日本人はトイレが近いのか、日本の航空会社の国際線のトイレの数は諸外国の航空会社のそれよりも多い。そのほか各航空会社とも、普通は乗客数50ごとにひとつというトイレの数も、ビジネスクラスやファーストクラスの客に「ぜいたくさ」を味わわせるために、それらのクラスでは多い。

そのほか、かっては普通だった「青い水」を流す水洗式のトイレ、「chemical toilet」は最近では真空吸引式に取って代わられている。これは、汚水の重量を減らして、トイレ関係の重量を極力減らしたい航空会社の要請と同時に、万が一、詰まった場合にトイレの汚水が流れ出してしまって、客室内を汚すばかりか、床下にある大事な電気部品や電線類を腐食してしまうという大きな問題があったからだ。

じつは「青い水」のトイレは、よく詰まった。たとえば日本から欧州へ行く長距離のジャンボ機(B747)では、10時間を優に超える飛行で、トイレが詰まることがよく起きた。そして、これを「掃除」するのが、スチュアデス(女性乗務員)の、もっとも嫌いだが誰かがしなければならない仕事だった。ゴムの手袋をして、トイレに手を突っ込んで異物を流す。なんとたいへんな仕事だろう。

ところで、その後、同じ空港で、じつによく似た車があった(右写真)。どう見ても同じメーカーが作った、同じ部品を使った車だ。しかし後ろに背負った「液体」を入れるタンクは同じサイズの同じものに違いないが、こちらは「飲み水専用」と書いてある。

合理的と言えば、なんとも合理的だ。人間にとってはほぼ同じ量の「出す水」と「入れる水」を扱うのに、同じタンクで、同じ形をした車で何が悪い、という西洋流の合理主義なのだろう。

(写真上は2014年5月、下は2014年9月。千葉県・成田空港で)


5-2:空港で”あまり目立ちたくない”車

いざというときにはもちろん必要だが、普段は乗客からあまり見えないほうがいい車に、消防車がある。飛行機は危険だということを能客に感じさせないためである。

左の写真は、オーストリアのローゼンバウアー(Rosenbauer)という空港向けの特殊消防車メーカーの大型8輪駆動車だ。PANTHER 8x8 ARFF vehicleというもので、特殊消火液を15000-19000リットルを積んで消火に当たる。


なぜ8輪駆動車なのだろう。それは、飛行機はどこで燃えるか分からないからだ。滑走路や誘導路はもちろん舗装してあるが、空港というものは滑走路以外は柔らかい草地に覆われている。空港の外側に拡がる畑に駆けつけなければならないこともあろうし、また、ときにはウサギを蹴散らさなくてはならないかもしれない。

いざというときには滑走路や誘導路にかまわず、ときには滑走路を塞いでいる機体を避けて草地を走り回るために、全輪駆動が必要なのである。

それだけではない。ことは人命にかかわる。1秒も早く、現場に駆けつけなければならない。このために、この車は恐ろしいほどの馬力のエンジンと、なまじの車では決して出来ないほどのスラローム走行が出来る性能を持っている。

他方、消火栓があるわけではない広い空港では、大量の消火液を積んでいなければならない上に、強力な消防ポンプや放水ノズルもとても重い。優に20トンを超えるこの重量車を機敏に走りまわさせるためにこのエンジンと全輪駆動が必要なのである。

もちろん、とても高価な車だ。たとえば長野・松本空港にはこの写真よりずっと小さな4輪駆動の特殊消防車が2台あるだけだが、それでも4億円近くしたという。

ちなみに、成田や羽田のように航空機の離発着がしょっちゅうある空港ではそうでもないが、松本空港のような航空機の離発着が少ない空港では、離発着するたびに隊員が消防車両に乗ったまま待機している。そのくらい1分1秒を争う仕事なのである。

(写真は2015年4月。千葉県・成田空港で)


5-3:空港で”どうしても目立ってしまう”車

ジェット旅客機が地上を走るときはバックは出来ない。前進だけしかできない。

このため、旅客の乗り降りのためにターミナルビルに向かって駐機したジェット機は、乗客を載せたあと、こうしたトラクターに押されて後進することになる。

これは牽引車(トーイングカー)、英語では「aircraft tractor」という車だ。ジェット機の下に潜り込んで仕事をする車だけに、背が低いことが大事な要件になる。

しかしそのほか、第一には、重い飛行機をかなりの速度で押すために、強力なエンジンを持たなければならない。必然的に、とても大きなエンジンになる。エンジンは運転席の横にまで張り出しているし、写真で黒く見える円筒型のエアクリーナーはエンジンルームに入り切らなくて外にはみ出しているほどだ。

第二には、ジェット機の前輪の軸の低いところにある特定の結合場所を正確に捉えてこのトラクターとつなぐために、前方がよく見えなければならない。大きなエンジンと、前方低いところを見ることは矛盾する。このため、この車の前方はまるで滑り台のような傾斜になっている。旅客機を押さなくて単独で走っているときには、まるでタコかイカが泳いでいるような滑稽な形である。

なお、この車の「前」は向こう側、「後」がこちら側になる。後輪に比べて、前輪ははるかに大きい。写真に見えるジェット旅客機の前輪よりもずっと大きいのが分かるだろう。

この車の後部には、申し訳程度に小さな消火器が着いている。もちろん旅客機の火災には役立たない大きさだが、ないよりもまし、ということだろうか。

車の方向を変えるのは後輪である、つまりフォークリフトのように、後輪側で操舵する仕組みだ。この特殊車のメーカーは、上の5-1と同じ、TLDという空港内で働く車の専業メーカーである。

なお、このトラクターは「TOWBARLESS AIRCRAFT TRACTOR」というものだ。このほかに左の写真のように、TOWBARというものを使って、トラクターが機体の下に潜らないで機体を押す仕組みのトラクターもある。どの空港でも、この形式のほうが圧倒的に多い。

トラクターそのものは、やはり強力で大きなエンジンを持っているために、エンジンのお化けのような形をしている。この方式だと、背の高いトラクターが使える反面、Towbarを機体の前輪のところに持っていったり接続したりすることに、より多くの人手や手間を要することになる。

2019年3月に追記】 この種のトラクターは、右下の写真のように特殊な形をしていることが多い。つまり、飛行機に近づく方が大事で(もしぶつけたら一大事)、前方が短く、よく前方が見えるようにボンネットも下がっている。一方、飛行機を引っぱる向きに動くときの後方はそれほどデリケートではないので、長くてボンネットも高く、エンジンや収納箱なども納めている。


では、もっと大きな飛行機はどんな車で引っぱるのだろう。左下の写真はドイツの重量物輸送用車輛を作っている専門の企業「Goldhofer」のトラクターで、羽田空港にある。

羽田にはかつては二階建ての超大型機、B747ジャンボ機が始終発着していたし、その後もB777などの大型機が多い。このため、それら大型の飛行機を引っぱるためには、もっと大型のトラクターが必要なのである。

いかにもタイヤとエンジンのお化け、といった形である。また飛行機の下部にある通信機器や給排水など、各種のふたを開けるにも、もっと小型の飛行機のように手が伸ばせば開けられるわけではない。

このため、アルミ製の梯子を2台も運転席の横に積んでいる。それだけではない。作業のためにこのトラクターの屋根に登れるように梯子や手摺りもついているのである。

エンジンが大きくても、もちろん空気抵抗など考える必要がない低速車なので、少しでも雨を避けるためだろうか、運転席のガラスは流線型とは逆傾斜になっている。

2017年10月に追記】その後、成田空港で、なんとも小さいaircraft tractorを見た(左の写真)。いちばん上の(5-3) aircraft tractorよりも随分小さい。運転席は雨ざらしである。

後ろに写っているA320の中型ジェット機のすぐ脇に停まっているから、この近辺で仕事があったのだろう。

上のaircraft tractorに比べると、A320を押すことができるとは思えない大きさだが、あるいは空荷の中型機をゆっくり押すためには、この大きさのものでもいいことを発見したのだろうか。

(写真は上から順に、千葉県・成田空港で
2015年4月、北海道・千歳空港で2015年6月、同じく千歳空港で2019年3月、東京・羽田空港で2015年6月、成田空港で2017年10月)


5-4:空港で”もっとも省エネな”車

空港には、いろいろ特殊な車があるが、そのほとんどはエンジンを持つ車だ。

しかし、この車だけは、写真に見られるように、なんのエンジンも持たない。英語では Passenger Steps、日本語ではタラップカーという。

そのかわり、屈強な男が前後について二人がかりで動かさなければならない。しかし、排気ガスを出して、地球で限られた化石燃料を消費する車ではないし、貧乏な航空会社にとっては、購入費もランニングコストも安い車ではある。

もちろん、エンジンや運転席や前照灯を持つ、もっと大型の Passenger Steps の車もある(左の写真)。あらゆる車の中で、もっとも重心が高くて転びやすい、つまり運転に最も気をつかわなければならない車であろう。

前照灯やバックミラーが「出目金」のように横に張り出しているというおかしな形だ。

そしてもちろん、この種の車は、普通は機体や、ときにはこのようにボーディングブリッジに、衝突しないようにうまく接合させなければいけないから、車の天井には大きなガラスがついているし、そこには立派なワイパーもついている。

【2017年1月に追記】下の写真は、たぶん、世界でもっとも生涯の走行距離が短い車だ。

LCC専用の成田空港の第3ターミナルで、搭乗口から飛行機のタラップまで、乗客が余計なところに入りこんだりしないように蛇腹型の通路を引きずって、延ばしたり縮めたりするための専用の車だ。

車の距離計は、普通には後進のときには距離は減る。この車も、もしそうならば、前進の距離はせいぜい十数メートルと知れているし、後進もほぼ同じ距離だから、車の生涯の走行距離は、世界でももっとも少ない車にちがいない。

なお「NAA」とは成田空港を管理する新東京国際空港公団 (New Tokyo International Airport Authority) のことである。

【2017年4月に追記】右の写真は成田空港に並んだタラップカー。どれも動力はなく、人が押すタイプだ。

 二種類あるが、ひとつは太陽電池を背負っている。タラップ内の夜間照明のために昼間、充電しておくためだろうか。そうだとしたら、どこかに蓄電池が隠れているに違いない。

 ところで、写真に写っている、右の枠はなんだろう。ご大層に地面に固定されたガードレールで囲まれている。大きさはタラップカーとほぼ同じ大きさだが、まさかガードレールを越えて入れておくものではあるまい。空港には、普通の常識では考えられない不思議なものが、たくさんある。

(上3枚の写真は2015年4月。千葉県・成田空港と北海道・千歳空港で。左上と右の写真は、それぞれ2017年1月と4月。成田空港で)


6-1:名古屋にあった怪しい自転車

右の写真は、名古屋に2台揃ってあった「怪しい」自転車。一見、ごく普通のママチャリの自転車に見える。前に買い物かご。後ろにごく普通の荷台。サドルもママチャリ型だ。

しかし「怪しさ」はペダルの裏に隠れていた。ペダルの下に見える黒っぽい長方形のものは内燃機のエンジンのマフラー(消音器)だ。下に細い排気管が出ている。そしてペダルの上、フレームの間にあるのはガソリンタンクである。そしてよく見ると、左右のペダルのクランクの間には、小型のガソリンエンジンが隠れているのである。

これは1984年にホンダが発売したガソリンエンジンを補助動力に使った自転車「ピープル」である。

いまや世界の大メーカーの顔をしているホンダも、この種のエンジンから会社が立ち上がったのである。当初は自転車に後付けする型のもの「カブ」だった。この写真のものは、後付ではなくて、最初からの組み込みである。

エンジンを始動するにはペダルをこぐことで後輪を回し、ハンドルに着いているスロットルレバーを押すことにより始動させた。つまり人力始動である。

エンジンでタイヤを駆動するのはチェーンではない。エンジンで駆動するローラーが後タイヤに押しつけられて、その摩擦で動く仕組みだった。これでは効率も悪いし、雨の日やタイヤが落ち葉を巻きこんだら滑ってしまう。

エンジンは非力だった。24ccのAB17E型という2サイクルエンジンで単気筒、最高出力はたった0.7馬力。最高速度も18km/hにすぎなかった。

この「自転車」は、ホンダの売出当初のPR「使いやすい新しいカテゴリーの二輪車として幅広いお客様に受け入れられるものと考えている」とは違って、大衆には「新しいカテゴリーの二輪車」として受け入れられず、全然売れない失敗作だった。それゆえ、現在ではその姿を見ることは珍しい。

じつは当時は補助動力付き自転車が一般の自転車のように無登録・免許不要で乗れるようになるという法改正が取りざたされていた。それを先取りした製品だったが、あまりに売れないので、製造はまもなく打ち切られてしまった。

まだ電動アシスト自転車が実用化する前だ。ホンダの創業者本田宗一郎が存命のころだった。「エンジン屋」としてホンダは、電気モーターではなくてエンジンを使いたかったのだろう。

(写真は2014年6月、愛知県名古屋市・栄で)

【追記】2015年10月に、この自転車に札幌で再会した(右写真)。北海道博物館(札幌市厚別区)に飾られていた。写真には、横に寝かせた単気筒空冷エンジンがよく見える。マフラーともども、よくも両側のペダルのクランクの幅の中に収めたものだと感心する。

なお、北海道博物館は、2015年4月にそれまでの「北海道開拓記念館」(1971年開館)が「開拓」という先住民族に失礼な名前を冠していた記念館から変わったものである。建物の外観は変わらないが、さすがにご時世、展示内容は大分、変えられている。


7-1:英国で「異様な進化の行き止まり」に達したスポーツカー

右の写真は、東京・本郷にあった英国製スポーツカー。TVRの「タスカン」だ。1999年に発売され、2004年末まで販売された。

ボンネットの不思議な曲面といい、ラジエターグリルのパンチングメタルの丸穴の羅列といい、見るからに奇怪な形をしている。ヘッドライトやウィンカーランプも、浮世離れした丸形である。上の1-1の丸形のヘッドライトと似ていなくもないが、こちらは「奇をてらう」ための形と配列である。

自動車は、元来は機能が形を決めていた。その後、生産性も、形を決める重要な要素になった。世界に溢れる実用車は、これらの制約の許で大衆にうけるべく、形が決められている。

しかし、スポーツカーは、空気抵抗や大きなエンジンを収納するエンジンルーム以外の制約はゆるい。これらの制約は、近年は比較的簡単にクリアーできる。つまり形を決めるのは、専ら販売戦略ということになる。少数の客だけを満足させればいいだけに、かつての恐竜のように「異様な進化」を遂げてしまう可能性が大きい車なのである。

このTVRという会社は英国で1947年に立ち上がった自動車メーカーだ。英国には多い「バックヤードビルダー」(裏庭で作業する程度の小さな自動車メーカー)として成功し、1990年代には同国で最大の独立したスポーツカー・メーカーとなっていた。

同社の車の最大の特徴は、いかにもスポーツカーという奇をてらう形のボディに、不相応な大きくて強力なエンジンを積んでいることだった。いまの言い方で言えば「直線番長」だった。カタログ上の性能のわりに安価なのが取り柄だったが、他方、ロードホールディングは貧弱なうえ、車としての信頼性には問題があった。この奇異な外形とちぐはぐな動力性能は、いかにも「異様な進化」が行き着いた先を示している。

しかし、これがいかにも英国らしいバックヤードビルダーの特徴だった。大メーカーとは違ったものを作って乗りたい、あわよくば、自分で改造したい、というのが「英国魂」のひとつの発露だったのである。

また、最近の車には普通に着いている電子制御や安全装備をもっていなかった。馬力が強くて、サスペンションがそれに「負けている」車だけに、雨の日など、条件の悪いときの運転にはとても気を遣う必要があった。つまり「危険な」車だった。

この「タスカン」も4000ccもの大容量のエンジンを、わずか1100kgのボディに積んでいる。ボディはシャーシに高張力鋼管スペースフレームを使ったFRP製なので軽い。全長4,235mm、全幅1,810mm、全高1,200mmだ。2人乗り。

奇をてらったのはボディの外形だけではない。たとえばドアを開けるためのドアハンドルはこの車にはない。ドアミラーの下部に小さなスイッチがついていて、それを押すことによってはじめてドアが開く仕掛けだ。

このTVRは、2004年に24歳という若いロシア人富豪に買収されたが販売は激減、2006年末に経営破綻した。しかし2013年に経営者が代わり、再建に動いているという。

この車は東京・本郷の車庫でほこりをかぶっていた。遠い異国で、この車を走れるように維持するのは大変だろう。

(写真は2014年7月、東京・文京区本郷で。【2019年6月に追記】その後、この車はなくなっていた。修理できなくて、持ちきれなくなったのかもしれない


8-1:「五度目の正直」をねらう”観光路線”東京都営バス「S1」

左の写真は、東京23区の東部を走っている都バス(東京都営バス)の特別仕様車である。土日は東京駅から御徒町・上野・浅草・スカイツリーを通って錦糸町まで、それ以外の日は御徒町から錦糸町までの観光路線バス「東京・夢の下町」だ。

このバスは路線「S1」を朝の通勤時間帯を避けて日中だけ走っている。乗車料金は普通の都バスと同じだし、都営交通の一日券もそのまま使える。

だが、これは新らしく造った車両ではなく、一般の都営バスで使用していた日野自動車製のノンステップバス、2003年式中型ロング車・レインボーHR(写真ですぐ後ろに停まっている)の改造車だ。

それゆえ、長さや幅は普通の都バスと変わらない。運転席まわりも同じだ。2008年4月から走っていて、2014年現在、5台が運行されている。

内部は、ゆったりした座席の配列や間接式の照明、つり革まで普通の都バスと変えられている。また、観光路線なので日本語、英語、中国語、韓国語の4ヶ国語で案内放送があり、LCDモニターでもこれらの案内がある。

このバスのデザインは、首都大学東京(旧都立大学。2005年に都立大学、都立科学技術大学、都立保健科学大学、都立短期大学を再編・統合した。しかし、「上からの改革」に反対する教職員は多く、この統合を機会に都立大学を去った研究者も多い)の教授で工業デザイナーの福田哲夫氏がデザインしたものだ。

日野自動車製の元になったバスと比べると、1台の改造費が約2,000万円という費用はかかったが、よくもここまで変えたもの、と感心する。とはいっても、バスは自動車の中でも、機能が形に影響することがもっとも少ないものなので、形は比較的制約も少なく、自由にデザインできるものだ。たとえば、動物の顔をした日本各地にある幼稚園バスがそのいい例だ。

この都バスも悪くはないデザインかもしれない。しかし米国でもっとも知られている長距離都市間バス、グレイハウンドのバス、それも1970-1980年代のバスにあまりに似ている。リブ付のステンレス外装は、側面も前後面も、そっくりだ。

じつは都バスは観光路線向きの専用車を投入して、たびたび失敗してきた苦い過去がある。たとえば、日本の道路事情にあわせて特別に全高を低くした赤いドイツ製二階建てバスを使った「01」系統(上野広小路〜浅草雷門)を1981年4月から運行したが2001年に廃止、同じく二階建てバスの「02」系統(葛西臨海公園〜JR小岩駅)は2000年に廃止、レトロ調バスの銀座「01」系統(東京駅〜銀座〜日本橋循環)は2000年廃止、 元都市新バス専用車の「速01」系統(東京駅〜台場駅・パレットタウン)は2003年廃止になった。

これらは通常の都バス運賃(当時大人200円)に比べて乗車賃が高かったことや都営交通の一日券(当時大人700円)が使えなかったこともあって客が少なく赤字だったことと、車両の排気ガス規制(NOxPM法)の年限が来てしまったことで廃止になったものだ。

つまり、この「S1」は都バスにとって「五度目の正直」を狙っているものなのだ。

(写真は2014年7-8月、東京都内で。上の写真は御徒町、下の写真は上野で。なお上の写真は4-way flasherが点灯した瞬間を狙って撮ったもの)


9-1:前をプロペラで邪魔されないために、みっともない形は我慢した飛行機

小型の単発のプロペラ機は、操縦席の前方でプロペラがまわっているのが普通だ。このため、プロペラはいつも目の前で高速回転を続けていることになる。

これは、とてもわずらわしい。双発機ならば、主翼の左右にエンジンやプロペラが付いているから、目障りとはいえ、操縦席のすぐ前でプロペラがまわっているよりは、ずっとましだ。

この飛行機は米国リパブリック社が1946年〜1947年に作った「Republic RC-3 Seabee」。見られるように水上で離発着ができる水上飛行機である。客室の天井にエンジンを取り付け、そこに後ろ向きにプロペラをつけている。

コックピットの後ろ側にあるプロペラを避けるという制約のため、機体の中央部以降がばかに細く、上向きに曲がって尾翼に達しているという滑稽な形をしている。水上に浮かんでいるときはそうでもないが、飛んでいる姿を見ると忘れられないほどの形である。

機体のデザインは飛行機業界のパイオニアと言われるPercival Spencer によるものだ。全体の印象は、なるほど、英語名のとおり「ミツバチ」に似ていなくもない。

乗員1名の他、客が3名乗れる、4人乗りである。ずんぐりした形で、長さは8.2m、全幅11.3m、積載重量 1275kgである。時速は 238km/hで、航続距離は 830kmだった。エンジンは水平対向6気筒で、Franklin 6A8-215-B8F または 6A8-215-B9F、 2,500 rpmで 215 馬力のものだった。

飛行場のない水上で離発着できる利点から、海岸線の長い米国やカナダのほか、北欧や島国などでも重宝された。また米国のほか、カナダ、ノルウェー、スウェーデンでも「救急車」として使われていた。

写真に見られるように、この機体は事故で破損したものをもらってきて展示している。この機体は1946年11月に初飛行、1953年にクラッシュしたという。この Seabee は1060機ほど作られた。しかし、前方がよく見えるという利点から、いまだに部品から組み立てた新品も少数ながら飛行を始めているほか、2006年段階でも、世界で250機以上の機体が飛行していて、オーナーズクラブもあるほどだ。

なお、リパブリック社は米国にあった航空機メーカー。おもに軍用機を生産していたが1965年にフェアチャイルドに買収されて消えた会社だ。

(この飛行機についての情報は、航空写真家・淵野哲氏にお教えいただいた)。

(写真は1987年、カナダ西岸のビクトリア島にある、とても小さな民間の乗り物博物館で)
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10-1:もっとも貧相な乗り物、北海道で使われていた「ガーデントラクター」。

乗り物としては貧相なものは多いが、これほどのものは少ないかもしれない。座席は尻がおさまる最小限の大きさになっている。まだ、みんなが貧しくて、冷害におびえていたころの農機具だ。

【2017年10月に追記】左の機械では、暗くなってからも作業するためのヘッドライトがついている。秋になると日が暮れるのが早くなる。だが、秋の農作業は多く、暗くなるまで働いたのだろう。

これは北海道で1930年代から使われていた「ガーデントラクター」。操行ハンドルを持ち、後ろに畑を耕したり、牧草を刈ったり集めたりするためのいろいろな器具を牽引するものだ。農地が広大な北海道では、人力だけで農業をやるにはあまりに広すぎる。

もちろん、見られるように、雨ざらし、風ざらしの乗り物だ。乗っていてもっとも楽しくない乗り物であろう。現在の農業用のトラクターは、密閉されたキャビンにラジオやエアコン、そしてトラクターが走る位置を指示するGPSさえ着いているのが普通になっているが、その「原型」はここにある。

もっとも、トラクターが「近代的」なものになり、それなりに価格も高騰して農家の首を絞める傾向は、近年、ますます強まっている。

北海道では秋になるとラジオの天気予報の時間に必ず、農業の作業中の事故に気をつけるよう、という呼びかけがある。年間20人も亡くなるという。不整地を走り、動作部分が剥き出しになっているこの種のトラクターも、多くの人身事故と無縁ではなかった。

(上は2015年10月、下は2017年10月、ともに北海道・札幌市の「北海道開拓の村」で撮影)


11-1:人の目を惹くためだけの「あざとい」日本車。

日本でも、この種のマイクロカーが生産されている。だが、どれも、多く売れて市民権を得るまでには至っていない。1-2人乗りで原付なみの50ccエンジンしか持たないわりに高価なせいだろう。

これは2017年10月に東京・銀座通りの文具屋・伊東屋の前に飾ってあった車。いかにも人の目を惹くべく作られた車だ。塗装もそれに輪をかけている。

この車は一人乗り。前2輪が操舵用、後ろは1輪で駆動用になっている。操舵は丸ハンドルで、写真のようにワイパーや後写鏡も備わっている。乗降用のドアは左側にしかない。だが、前照灯は1個だけで、これでは夜に立体感が分からない。

この種の車は、もちろん車道を走らなければならない。万一、普通車やトラックと衝突したらひとたまりもあるまい。

つまり、この種の車は日本では普及しないし、形としての必然性やデザインはほとんどなく、「あざとい」車にすぎないのだろう。



【2017年12月に追記】12-1:世界でもっとも悪趣味な車---フィリピンのタクシー「ジープニー」

世界のどの国でも、タクシーは、客に目立たなければならない。タクシーを必要とする客にとっては、普通の乗用車やトラックは邪魔なものであり、タクシーが目立ってくれることがもっとも大事なのである。

だが、普通は「良識」というものがある。目立つほうがいいとはいっても、この車のようなものだと、さすがに辟易するのが普通だ。ボンネットや屋根の上の飾りは、とっくに「良識」を超えてしまった、ヘッドライトの前に立っている二本のメッキした柱やフロントバンパーの飾りは、なんの実用的な意味もない。

だが、フィリピンには、この種の「良識」はないに違いない。このように飾り立てた「ジープニー」が町中を走り回っているのである。

一見、米国製のシープのように見える。とくにボンネットやヘッドライトや前のフェンダーはジープそのものだ。

だが、じつは、これは模倣だ。エンジンは日本のトラックの中古エンジンであることが多いし、ボンネットやフェンダーは、もっとも作りやすい平面で構成されている。ジープと違って、安価な後輪だけの駆動になっている。つまり、ジープに形こそ似ているものの、どこにも、ジープも、その部品も使われていないのである。しかも、同じものは2台とない。これらのジープニーは、あちこちにある町工場で作られているからだ。


(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


13-1:日本の警察は「車両強制停止装置」というものを開発しました。

これは乗り物を「止める」ためのものだ。車に乗っているのは、たぶん「容疑者」、止めるのは「警察権力」である。

日本の警察は、写真のような装置を開発して、歩行者天国などに置き始めた。車両の進入をくい止めるためのテストをくり返したものに違いない。

これで大型トラックも止められるかどうかは不明だが、諸外国のように、コンクリートのブロックや柱を置くよりも軽くて、持ち運びも容易なのが取り柄なのだろう。

これには「車両強制停止装置 とまるくん」という、いかにも警察用語然とした名前がついている(右写真のように、下部のパネルに貼ってある)。

(2018年8月、東京・銀座通り(中央通り)の歩行者天国の新橋側の南西端で撮影)


14-1:農作業用の車もそれなりに進歩しているのです。

これは日本製の農作業のための車「ライガー(Liger) ELL802」である。前輪操舵方式のほかに「胴体屈折操舵方式」という機構も採用していて、最小回転半径は2950 mmという短さを誇っている。確かに農作業のためには、最小回転半径が小さいことは大きな利点になる。

また、4輪駆動である上に、運転席部と荷台とが路面の状況で別々に反応する「センターローリング機構」を採用しているので、凹凸の路面でもタイヤの浮き上がりがない。このほか「油圧ダンプ」も装備している。

エンジンは空冷4サイクルで300cc、駆動馬力はたった8馬力だが、最高速度が14 km/hという低速車両だし、これで十分なのだろう。前進が4段、後進が2段のトランスミッションを持っている。

ハンドルはパワーステアリング。その他、サスペンション付シートを採用している。価格は140万円だ。

全長は3315 mm、全幅は 1185 mm、重さは570 kgである。

だが、これに乗っているといかにも滑稽で、「不器量」なものに乗っている感じを否めない。農作業のための車ゆえの制約なのだろう。

なお「Liger」とはライオンの雄と虎の雌の混血のことだ。逆にライオンの雌と虎の雄の混血を「Tigon」という。前者の方が早く成長して大きくなる。これらは19世紀ごろから欧州などで人工的に作られた。学術的な研究よりも動物園やサーカスなどでの見世物として利用されてきた面が強い。可哀想に、ライガー、タイゴンともに雄はまったく繁殖力を持たない。まれに雌には繁殖力があってライオンやトラとの間に子が生まれる場合もあるが、生まれた子は雄雌ともに生殖機能がないので、以後の繁殖はできない。人間が犠牲にした生物である。

【2019年9月に追記】この車の運転席は質素なものである(右の写真)。前進と後退は右手のレバーで切り替える。ペダルは3つで、右からアクセル、ブレーキ、クラッチだ。あとは方向指示器のレバーと、ライトのスイッチ、ホーンボタン、エンジンを冷間時に動かすためのチョークボタンなどがあるだけだ。速度計やエンジンの温度計はない。1970年代までの昔の車にはチョークボタンがついているのが常で、エンジンが暖まってからも、このボタンを戻すのを忘れることも多かった。

【2019年10月に追記】札幌市の中島公園で、同じような作業車を見た。こちらは、いかにも農園作業用の七つ道具を背負っている。

さすがに雪国だけに、四輪駆動の車だ。前輪と後輪に違うタイヤを履かせている。両方とも、不整地を走るために太い。

ボンネット(?)は垂直で短いかr、写真のように手袋やタオルを干すために好適だ。その他にも、文房具のクリップがいっぱい着いていて、いろいろなものを吊すのに重宝しているのだろう。

燃料タンクは、車のエンジンの大きさや燃料消費量から見ても、2トントラックなみで、とても大きい。これは燃料を入れるために、ガソリンスタンドまで自走するのが遅くて大変だからだろう。
その運転席は右写真にある。一人乗りで上の車と似ているが、こちらのほうが、いまにも作業に出かけようという準備が進んでいる。ダッシュボードにヒモで固定してある白いものはなんであろう?

文房具のクリップがいっぱい着いているのが、よく見える。


(左上は2018年9月、東京・調布市の神代植物公園で。右上の写真は2019年9月、神代植物公園で撮影。左下と右下の写真は2019年10月、札幌市の中島公園で撮影)


15-1:よく、こんなもので空を飛んだものです。

これはスイス・チューリッヒ空港に展示してあった、1903年に米国のライト兄弟が空を飛びはじめて間もないころの古い飛行機。第一次世界大戦 (1914-1917年)時代の飛行機である。

操縦席は吹きさらしで、車輪は(現代の引き込み式ではなくて)固定式で飛行中、ずっとぶら下げたままで、機体の空気抵抗などは考えなかった時代のものだ。エンジンの信頼性もごく低かったに違いない。

初期の戦争は、この程度の飛行機で、煉瓦などを相手にぶつけたものだという。その後、戦争に飛行機が有用だと分かって急速に「進歩」したのは、このあとの時代だ。

(1983年8月、スイス・チューリッヒ空港で撮影。撮影機材はオリンパスOM-1、フィルムはコダクロームKR

 


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