今月の写真
板子一枚、下は地獄


数えてみたら、私は97回、研究のために船に乗ったことがあり、合計の乗船日数は955日を船の上ですごしていた。私たちが乗った船は国内外の観測船や民間から借りたサルベージ船がほとんどだったから船足(船速)は遅いが、この日数は、地球を約12周するだけの日数になる。

また、これらの船の船乗りたちは、もと漁船乗りだったり、もと商船乗りだったりしたから、彼らの船での経験について、いろいろ話を聞く機会も多かった。船の上では、ほとんど変化しない大海原を眺めながら、いくらでも話をする時間があるのだ。船乗りたちは、どの国の船乗りも、みな人なつっこく、また、話し好きだ。私は、「耳学問」も含めて、海や、船のことや、(空港から入ったのとはまったくちがう様相を見せる)港から入った各国の都市について、結構、知るようになったのである。

2008年6月に、千葉県犬吠埼灯台から東に約330kmのところで起きたカツオ巻き網漁船「第58寿和丸」(総トン数135トン、小名浜機船底曳網漁協所属、20人乗り組み)が転覆して、4人がなくなり、13名が行方不明になった海難事故は、私にとっては、他人事とは思えなかった。突然、船のブリッジ(船橋)よりも高く立ち上がる「三角波」。荒れた海で船が最後に頼る「シーアンカー」。ある程度長く船に乗ってきた、たいていの船乗りは、もう駄目だ、と思った瞬間があるという。私もそれに近い経験をしたことが、何度かある。

写真は、どの船にも備えてある救難食糧。横13.4cm、縦8.4cm、奥行き6.4cmほどの赤橙色のプラスチックのごく小さな箱だ。しかし、重さは760グラムとずっしり重い。これは9食分で、これも船にかならず備えてある救命艇や救命ボートには、人数分が収納されている。

この「食べ方」は左の画像のようなもので、すぐに食べるな、なるべく食いつなげ、と書いてある。

また、この箱には、右下の画像のような紙が入っていて、これに遭難場所や遭難船の名前などを書き込んで、この箱に入れて海に流す。文字通り、最後の、一縷の望みを、この箱の行方に託すわけである。

なお、左下の画像は「メニュー」だ。プラスチックの箱の大きさから想像できるように、それぞれの「袋」はごく小さい。この少ない食糧を食べつなぎながら、袋の数が減っていくのを見るつらさは、想像にあまりある。

以下の茶色字は、私の著書、『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』
『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚『地震学がよくわかる---誰も知らない地球のドラマ』から、船の揺れについての記述を抽出したものだ。

これ以外にも何度も「
揺れ」について書いている。いかに、「揺れ」がたいへんで、観測や研究にも影響したかを、くどいくらい書いているのが分かるだろう。船の上で揺れに苦しみながら、何度、自分を呪い、大学の研究室だけで研究をしている「割のいい」研究生活を羨んだものか、数知れない。

  しかし、研究に「新しい窓」を拓くためには現場に行かなければ、また、現場に行くために、いままでなかった観測器を作らなければ、と信じて取り組んできたのが、私たちの研究手法なのであった。


島村英紀『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』から

 海洋地球物理学者がフィールドにするには、日本海はなかなかのジャジャ馬で、よく泣かされる。まわりが閉じた海である日本海は、風がなければ月が映るほどのベタ凪の海なのに、いったん風が吹きだすと、あっという間に波が立ち上がる恐ろしい海でもある。

  とくに三角波という角の立った巨大な波がよく生まれる日本海は、船乗りに怖れられている。

 揺れる船。悪い居住条件。深夜労働。(外国の船での)言葉の不自由。拘禁状態によるストレス。私たちの海底地震計の仕事では、ときどきはこんなことが起きるのが避けられない。赤は赤、黒は黒と唱えながら、別の色の電線をつないで虎の子の機械をダメにしてしまった先生もいる。誰でも間違う可能性があるゆえ、誰も責められない悲しい事件である。

 フィールドの科学では、研究計画どおり、100%の実験ができることは、まずない。それは覚悟の上である。しかし若いころは、ちょっとした失敗に、寝られないくらい悔しかったことも多々あった。四半世紀も現場の科学者を続けてきて、ようやく、少しは枯れた心境にもなったのである。なに、ひとつくらいダメでも、解析でなんとかカバーしてやる、なにくそ、と思えるようになったのだ。

 悪いことは重なるもので、もっと悪いことが起きた。午前3時には、風に押し流されて大きな氷山が近づいてきたのだ。毎時3ノット(毎秒1.5メートル)、早足くらいの速さで、どんどん船に向かって来る。氷山は「ネプチュニア」よりはずっと大きい。ぶつかられたら、ひとたまりもない。このため朝4時に急拠、錨を揚げて動き出すことになった。氷山が寄って来る島陰よりは、船は揺れても、外洋の方がまだ危険が少ない、と船長が判断したのである。

 ビューフォート風力階級では7の風。陸上にいれば、風に向かっては歩けないほどの強風である。風力階級の定義である英語をそのまま訳せば、ほとんど大嵐、というのがスケールの7だ。

 現場に着いた。波は荒い。しかし、せっかく何時間もかかって現場まで来たのだから、意地でも海底地震計の設置をやってみることにした。駄目でもともとである。

 設置を試みる作業はなかなか大変であった。うねりが大きいため、後甲板にあるデリック(海底地震計を吊るクレーンの腕)とそれから吊っている1メートルほどもある鉄製の巨大な滑車が船の揺れとともに空中を飛び回る。慌てて押さえようとした船員が、あっという間になぎ倒される。

 幸い怪我はなかった。しかし、これではデリックは危険で使えない。

 この滑車に80kgほどある海底地震計を吊って、舷側から外に振り出して、静かに海面へ降ろして切り離すのが、海底地震計のふつうの設置方法だ。でも、揺れる船の上で重い滑車や海底地震計が振れ回ったら、人間の力では押さえられるものではない。また舷側から外へ出したとしても、吊ってある海底地震計が船腹に激突するかも知れない。海底地震計の中身はガラス球だ。ガツンとやられたら、ガラスはひとたまりもない。

 横揺れのせいで、「ネプチュニア」の舷側から、大量の海水がなだれ込んでくる。甲板の側板のいちばん下、つまり甲板と側板の継ぎ目のところには細長いスリット(切れ目)が入っている。甲板に入った水を舷側から逃がすためである。このスリットから、奔流のように海水が噴き出してくる。そして入ってきた大量の海水は、船の揺れとともに、甲板の上をのたうちまわるのである。

 私たちはびしょ濡れになった。

 たとえ濡れても、夏の日本近海ならば、大したことはない。しかしここは、目の前に氷山が浮いている南極海である。よき防寒具は、あいにくと、よき防水具ではない。凍るような水はたちまち羽毛服を通して下着までしみわたり、濡れた足や手は、またたく間に感覚を失っていく。

 翌朝、すぐ再開できるように、その後は漂泊である。漂泊とは、錨も下さず、現場で船を漂わせたまま休むことである。登山で言えばビバークだ。安全で静かなところまで帰る時間も余裕もないときの、最後の休憩手段である。発電機だけを残して主エンジンを切ってしまった船は、スクリューが止まったせいで、一段と揺れはじめる。このまま船は一晩中、揺れ続けるのである。

 これまで以上のシケになりそうだというので、「ネプチュニア」の中には緊張が走った。

 避難に向かっている途中でも波はどんどん大きくなっていく。食堂は大騒ぎだ。皿の割れる音。叫び声。「ネプチュニア」の揺れ片側で25度。左右で50度にもなった。

 船乗りには共通の心理がある。どんなに荒れて船が揺れていても、目的地に向かって進んでいる間は、まだ心に余裕がある。しかし、避難のために目的地から離れて逆さまの方向や別の方向に向かっているときには、どんなベテランの船員でも気が滅入るという。私も観測船に乗り始めてから四半世紀になって、この船乗りの気分を自分なりに感じるようになって来ている。

 陸が見えるわけでもないし、コンパスでも見ていない限り、船が進んでいる方向は分からない。それゆえ、これは多分に心理的なものだ。

 あと3時間。船内の空気は重苦しい。この大揺れジュバニー南極基地までの辛抱である。

 じつはウシュアイアに入ってから分かったことなのだが、このドレーク海峡の荒れで、「ネプチュニア」の舵とスクリューを兼ねているコートノズルが曲がってしまっていたのである。このためもあってスピードが出なかったのだ。なにかあったら遭難にも結び付きかねない部分だけに、コートノズルは特別に丈夫に作ってある。それさえが、ドレーク海峡の荒波で曲がってしまったのである。

 午後4時現在、ウシュアイアまではまだ360海里、つまり670 kmもある。海況が良くなって船足が快復したとしても、あと50時間ほども、この揺れに耐えなければならない。

 船のサロンに集まる人もごく減ってしまった。ふだんはお茶を飲んだり、船内新聞を読んだり、おしゃべりを楽しむために、かなりの人数が集まっている部屋である。私たちの海底地震計の組立てが終わって、ようやく本来のサロンに戻って間もないところであった。なのにいまは、当直の交代時間を待つ船員や、仕事明けの船員が、わずかな時間を過ごすだけである。

 食堂も科学者・技官側は6人席で2交代だったのが、全部で二、三人しか食事に来なくなってしまった。船乗りはさすがに強くて食事だけはするが、それでもふだんと違って冗談も言わず、黙々と食べては、そそくさと船室に消えてしまう。

 午後7時過ぎ、船の傾きは横に35度を記録した。これはこの航海での新記録である。柱や壁につかまらなければ歩けない。

 今朝の風力は5だった。それが英国海峡で6。海峡を出てからは8。午後には9。陸上ならば瓦が飛んだり煙突が倒れる風だ。そして夜にはついに風力10になった。風力10は、海ではたまにあるが、陸地ではまず吹かない風である。大木が根こそぎ倒れたり、家が風で吹き倒される被害を生むほどの風だ。私が人生で経験したいちばん強い風である。

 午後8時半、あと370海里だった、と訂正がある。さっきの距離は、ウシュアイアの入り口にある長い水路であるビーグル海峡の入り口までだったからだ、という。あと53時間だとも言われる。あと50時間と言われてから指折り数えていた我が同僚は、船酔いがひどくなってしまった。

 船乗りのあいだでは、このドレーク海峡を越えたことがある船乗りは、人と話すときに、机の上に足を投げ出したままでいい、とすでに書いた。それが深く実感できる海況なのである。

 午後からはまた風が強まって、海況が悪化した。午後6時にようやくあと212海里になった。ようやく東京から大阪までの距離だ。しかし、また船速は6ノットに落ちてしまっている。うねりは相変わらず大きい。この距離を早足くらいの速度で進むもどかしさに、船内のイライラが募る。科学者も船員もそれぞれの部屋に篭ったまま、際限のない揺れを相手に、孤独にして不毛な戦いを戦っているのである。これだけ揺れ続けると、字を読むことも、書くことも、いや、なにかを考えることさえ苦痛になってしまうのである。

日本海をフィールドにする「清風丸」(350トン、舞鶴海洋気象台所属。なお函館海洋気象台の「高風丸」は同じ大きさの姉妹船だ)などの気象庁の観測船は、横に92度まで傾いても復元する能力を持っていると聞いた。92度。真横よりももっと揺れても耐えられる船でなければ、荒れた日本海をフィールドにはできないのである。気まぐれな海況にはばまれて、私たちの観測も、何度泣いたことか。

これだけ揺れ続けると、日本の船だと料理のメニューが日に日に貧弱になっていってしまう。少し揺れるとてんぷらやカツがなくなる。熱い油が危ないからである。もっと揺れると煮物がなくなる。そして最後に残るのは乾パンやビスケットである。

 しかしこの点だけはポーランドの船はありがたかった。油で揚げたり、煮たりする料理が日本ほど多くはなくて焼くものが多いせいか、それほど貧弱なものにはならないのである。これは世界中に漁船を派遣しているポーランドならではのコックの努力と工夫なのかも知れない。

私たちが日本から運んだ海底地震計は9台だったが、海底地震計はデリケートな機械ゆえ、組み立てた状態では運べない。このため、バラバラにして運んだ部品を、かなりの時間をかけて丁寧に組み立てて調整しなければ、実験が始められないのである。海底地震計の組み立てや調整は、時計やカメラの修理屋くらいの精密さを必要とするから、揺れる船の上でやるにはなかなか大変な作業なのである。

島村英紀『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』から

 北海道、十勝の沖200kmキロ。真夏だというのに、霧が濃く立ちこめた海上は、寒い。水温は十二度しかない。海上では、気温もほとんど同じになってしまう。

 船の上で海底地震計の回収作業をする研究者や大学院生は、セーターを着ても、寒さに震えている。

 これで一週間、太陽を見ていないばかりか、時化(しけ)の日が続いている。

 北洋では、霧が出ても、海は荒れるし風も吹くのだ。

 甲板に一人で出てはいけない。たまに入ってくる大波で、さらわれかねないからだ。

 食事だけが楽しみ? そんなことはない。大揺れが来たな、というときには、その瞬間に味噌汁と茶碗を両手に抱え、肘で皿を押さえつけなければならない。タイミングを間違えると、惨めなことになる。

 しかしその食事をとれるのは半数ぐらいか。8時間交代でまわって来る仕事の時間以外は、死んだようにベッドに伏している大学院生も多い。

 うるさいエンジンの音に混じって、かすかに聞こえるラジオから、うだる日本列島のニュースが流れている。遠い国のことのようだ。

島村英紀『地震学がよくわかる---誰も知らない地球のドラマ』から

 船での観測は日数がかかる。長ければ数カ月を船の上で過ごすこともある。帰ってきたときに愛児に泣かれて当惑した地球物理学者も多い。子供に顔を忘れられてしまったからである。

 私たちが借りられる船は小さいものが多い。だから、船酔いはつきものだ。

 搖れの少ない日は、何日かに1日はある。しかし、始めから終わりまで搖れない航海というものはない。

 船酔いはいやな病いだ。船から逃げ出すことは出来ない。

 しかも皆が等しくかかる病気ではない。どんなに揺れてもケロッとしている人を見ることは、船酔いを一層悪化させる。

 ところが、その逆のこともある。A先生は自分が気分が悪くなると、船室で寝ているHさんを「見舞い」にいくのが常であった。Hさんはとくに船に弱く、誰よりも早く船酔いになり、誰よりも症状が重い。A先生はぐったりしているHさんを「見舞った」あとは、安心して少し元気になるのである。

 いくら船酔いをしていても、船の上でしなければならない仕事は否応なしにやってくる。海底地震計の設置準備や海底への設置作業などだ。じっとベッドに寝ているのならまだしも、起きて無理に仕事をすることは、船酔いを一層、悪化させることになる。

 こんな雰囲気の中では、ともすれば悪いことが起きる。陸上の実験室では考えられないようなつまらない失敗を犯すことが、よく起きるのである。たとえば電線のつなぎ間違い。赤は赤、黒は黒、と唱えながら赤い電線を黒い電線につないでしまった失敗さえあった。

 どれも、なぜそんなミスをしたのか、あとからはとうていわからないような初歩的な失敗だ。船酔いや、狭い船内という拘禁状態から来るストレスのせいに違いない。

 しかし、たったひとつの小さなミスでも、何カ月もかけて準備した海底地震計の観測をダメにするのには十分なのだ。記録が全部フイになったり、地震計が海から帰ってこなくなることさえある。天を恨んでもしょうがない。せめて、私たちが飛行機の整備士や外科医でなかったことを感謝すべきなのだろう。

 船では陸上の生活とは違うことが起きる。船が傾くから目薬が差せない。助手のYさんは階段の手すりが「ぶつかってきて」頭を打った。ほとんど落語の世界だ。もっとも危険なものは開いたままの扉だ。船が揺れたら扉にはり倒されることになる。+もちろん、大事なものが机から落ちたら一大事だ。陸上なら修理を頼んだり部品を取り寄せたり出来るが、船では、なにかたった一つが壊れただけでも、観測の命取りになる。

 食事だけが楽しみ? たしかにそうかもしれない。ところが、船酔いのときには食欲もなくなるのだ。食べられないときに自分の好物が出ることほど恨めしいことはない。

 そのうえ、揺れがひどくなると、食事も簡素なものになってしまう。少しでも海況が悪いと、まずなくなるものが天ぷらだ。煮えたぎった油が天ぷら鍋の中で踊りまわるのがどんな危険なものか、容易に想像がつくだろう。それ以上揺れてくると、調理に手間がかかる料理から順番に食卓から消えていく。最後は乾パンになってしまうのである。

 海底地震を研究する私たちにとっての不幸は、不意打ちでやってくる。船に乗って海に出て、いざ実験というときに観測機械が故障する不幸だ。

 機械を船にのせる前には、もちろん万全の準備をして、テストも済ませた。しかし、肝心のときに思わざる故障が出てしまうことがあるのだ。じつは、船ではよく起きる「事件」なのである。故障の原因はいろいろ考えられる。港までトラックで運んで船に積み込むまでの振動。船の揺れやエンジンの振動。湿気が高く、塩分も多い船内の空気。

 もちろん、こういった故障が大学の実験室で起きた事件ならば、恐れることはない。修理の技術者を呼ぶことも、代わりの機械を用意することも出来る。

 ところが、海の上では困る。

 何ケ月も準備して、船を借りる算段もして、ようやく海へ来た努力。肝心の観測の機械が動かなければ、すべてが水の泡である。#かつて留年を余儀なくされた大学院生もいた。人生を棒に振ったのである。

 追い詰められて、やむをえず、船の上で機械を分解することが多い。こうなったら、ほかの観測はそっちのけである。何人もかかって、机くらいの大きさの機械をネジ一本までバラバラにして、ようやく修理したこともある。丸2日かかった。

 こうして機械をようやく動かすことが出来た喜びは、なにものにも代えがたい。

 ところで、観測機械の分解修理はいつも成功するとは限らない。いちばん口惜しいことは、悪い部品がわかり、取替えれば直るというのに、肝心の部品がないことである。歯車の歯が欠けていた、バネが折れていた、半導体が死んでいた、といったたぐいである。

 血眼になって船じゅうを探す。船の機関室や無線室に潜り込んでスペアパーツを漁る。もちろん、もし見つからなければ、わざわざ海にきた甲斐がなくなってしまう。大いなる人生の無駄を噛みしめることになるからである。

 ある高名な先生は、電源のコードが欲しいばかりに、私たちのオシロスコープに付いていた電源コードをちょん切って持っていってしまった。猫に鰹節。たとえ他人が使っているものでも、見境がなくなってしまう。もちろん、以後、オシロスコープはもう使えない。

 ところが突然、悪魔が牙を剥いたのだ。

 海は荒れていた。しかし海での経験が長いVさんにしてみれば、大シケというほどのものでもなかった。Vさんは甲板で一人で準備作業をしていた。

 そのとき、大波が船を襲ったのである。突然の横揺れのために、Vさんは甲板の端から端まで飛ばされて、鉄板の壁に、したたか身体をたたきつけられた。

 Vさんは膝の靱帯を切って動けなくなった。だがもっと悪いことには、神経まで切ってしまっていたのである。パイプや機械がむき出しになっている船の甲板や壁は、それだけで立派な凶器なのである。

 Vさんは3カ月ほどの療養後、松葉杖がなくても歩けるようにり、やがて自動車の運転も出来るようになった。しかし、この怪我のあと、揺れる船の上で重い観測器を持ち上げたり動かしたり、という作業は出来なくなってしまったのである。

 そもそも、私たちがやっている観測船の上の研究作業は、ときにはかなり危険なものである。

 Vさんのように船の揺れで怪我をするばかりではない。私も甲板で作業をしていて、いきなり船を乗り越えて入ってきた大波で船縁にたたきつけられたことがある。幸い、Vさんのような大怪我はしなかったものの、私の身体には、そのときの傷がまだ残っている。身体だけではない。私は買ったばかりの一眼レフカメラと超広角レンズを、この事件でダメにしてしまった。

 もっと悲しい例もある。日本の大学院で海底地球物理学を専攻していたSさんは、物理探査の会社に就職後、観測船に乗っていて、姿が見えなくなった。

 船の上では、一人で甲板に出るほど危険なことはない。船から人が落ちたことをたまたま誰か見ていたとしても、船が向きを変えて現場に戻ってくるのには半時間もかかる。そのうえ、目印になるものが何もない海の上では、正確に元の位置に戻ってくることはほとんと不可能だ。人間の頭というものが大海原ではどんなに小さくて見えにくいものかは、探した人にしか分からない。つまり、落ちた人を探すことはじつに大変なことなのである。

 まして、いつ落ちたかわからなくて、あとで気が着いたとしたら、見つかる可能性はほとんどない。広い海では、必死に探しても、まず見つからない。落ちた人がどんな大声を出したとしても、船のエンジンの音にかき消されてしまうのである。

 しかもSさんの場合は夜だった。調子の悪くなった機械を、一人で暗い甲板の上に見に行ったのを、誰も知らなかった。

 はじめて海に出る学生など、船酔で気分が悪いときには足元もおぼつかないので、とくに危ない。気分が悪くても外へ吐きに行くな、というのが私が学生に与えている注意である。

 さて、Vさんは強靭な身体のせいか、時間はかかったものの、少しびっこをひくようにはなってしまったが仕事に復帰することが出来た。

 その後定年になったVさんは、海の見える家で悠々自適の生活を送っている。それでも、私たちが海底地震観測でノルウェーに行くときには、いまでも、海底地震計のバラスト錘という、観測に必要な鉄の部品を、自分の家で、喜んで作ってくれている。

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