人間訪問 vol.18 (北海道新聞の月刊誌『道新Today』 2001年6月号・2001年5月15日発売)

地球の腹の内に挑み続ける 島村 英紀さん


 私たちは地球に住んでいる。だが、その内部はまだ分からないことが多い。そればかりか、不意の地震で手痛い目に遭うことさえある。そんな地球の「腹の内」に独創的な方法で挑み続けている学者がいる。象牙の塔に閉じこもらず、極地に、熱帯にと縦横無尽に飛び回るこの人は、同時に研究の現場を素人にも分かりやすく教えてくれる科学の語り部でもある。(文中敬称略)


 ブエノスアイレスを飛び立ったアルゼンチン空軍の兵員輸送機は、南極へ向かう観測隊員たちでごった返していた。窓もなければトイレもない。座席もない。そんな中に荷物をぎっしり並べ、約130人がひざを突き合わせて座っている。外はまだ真っ暗。島村英紀はそんな武骨な飛行機に、日本人でただ一人乗り込んでいた。目的地は南極半島のマランビオ基地だ。

 暗い中を飛び立ったのにはわけがある。基地の飛行場は、永久凍土をならしただけ。凍っていれば大型機が降りられる硬さがあるが、日が昇ると太陽の光で解けて一面の泥んこと化す。かといって真夜中は暗くて危険だから、夜明け前のほんのわずかな時間を狙って離着陸するのだ。

 到着間際、島村は賓客として操縦席に招かれた。窓の外では、明け初めた青灰色の海の中に氷山が青白く輝いていた。短い滑走路をいっぱいに使った荒っぽい着陸の後、島村は初めて南極の地を踏んだ。1990年12月。南極は短い夏を迎えていた。

 この年、島村のチーム三人は、米国、英国、アルゼンチン、ポーランドなどの合同探検隊に招かれ、アルゼンチンが持つ基地をベースに近くの海で観測を行った。テーマは「日本海の誕生」。日本海がなぜできたかは、地球物理学上の大きななぞとされている。日本海ができた当時と条件が似ている西南極の海で、海底地震計を使った調査を行い、そのなぞを解明するのが狙いだった。

 海底地震計とは、その名の通り海底に設置して、地震の震動をとらえる装置だ。船から海に沈め、データを集めた後、超音波で信号を送って浮上させ、回収する。沈んでいる間に火薬や圧搾空気を使って「人工地震」を起こし、その震動の伝わり方を調べると、地球内部のようすが分かってくる。島村ら北大の研究者たちは、自ら開発した海底地震計を使って、日本近海や大西洋などでの研究も続けており、この分野では世界の最先端を走っている。

 南極、北極圏のアイスランド、赤道直下のラバウル…。島村ほど行動範囲の広い大学教授は珍しいだろう。地球を縦にも横にも回って、航海した距離は合わせて地球11周分にもなる。

 縦横という言い方だけでは足りないかもしれない。えりも岬沖の「えりも海山」の調査では、フランスの潜水艇に乗って、4000メートルの深海に潜ったこともある。地球を三次元で旅する男|とでも言えば正確だろうか。

文化人の多い家系

 島村は1941年11月23日、東京で生まれた。本人いわく「生まれたときから地震と縁があった」。彼の誕生日と同じ日に、大きな地震がたびたび記録されているからだ。1703年には川崎から小田原まで壊滅した元禄大地震が起きているし、1707年には富士山で「宝永の大噴火」と呼ばれる噴火があった。

 父・喜久治は東京の国立清瀬病院長で、当時国民病と言われた結核の治療に取り組む一方、文章家でもあり、後に「院長日記」で第2回エッセイストクラブ賞を受けている。母・千枝子は東京芸大でピアノ科の教師。祖父は旧「山陽新聞」の経営者兼主筆だったこともある。さらに、母方の祖母の妹は日本の美容師の草分けでNHK朝の連続ドラマのモデルにもなった吉行あぐりで、直木賞作家の故・吉行淳之介、吉行理恵と女優吉行和子の三きょうだいは血縁にあたる。

 「吉行(淳之介)さんは結核を患ったとき父の病院に入院していたし、父は彼が親しかった宮城まり子さんのねむの木学園の理事でした」

 東京学芸大付属大泉小では、3、4年の担任で、東京教育大を出たばかりだった永嶋浩一(故人)という先生に大きな影響を受けた。

 「権威を疑うことと詩を書くこと、当時まだ珍しかったサッカーを楽しむことを教わりました」

 永嶋はその後、朝日新聞に入社し、全国各地で記者として働いた後、甲府支局長を務めた。

 同級生の川嶋行彦(東京国際大教授)の一級上の兄・辰彦(学習院大教授)は秋篠宮妃の父だ。

 学校の周辺は、今でこそ住宅が密集しているが、当時はまだ一面の畑。授業の中に畑作業がある時代だった。

 その後、島村は東京教育大付属中、同付属高へ進学する。それぞれなかなか面白い青春時代だったらしい。小学校で覚えたサッカーでは中学時代、フォワードを務め、3年間、都内で不敗を誇った。高校時代の同級生には各方面で活躍する学者・研究者らが綺羅星のごとくいる。

 東大に入学した島村はサッカーをやめ、東大新聞の記者になった。当時の東大新聞社は財団法人で、学生サークルとは一線を画しており、発行部数約1万部を誇っていた。ちょうど60年安保の時期だったが、島村によれば、アジテーションや絶叫調の紙面づくりはしなかった。

 「そんな時代だったからこそ、自ら叫ぶことを拒み、対象から距離を置きながら、それでも変革の意志に燃えていた」と島村は振り返る。

 編集部には、北川重彦(元読売新聞社会部長)、天野勝文(日大教授)、池田信一(ジャーナリスト)らそうそうたるメンバーがいた。編集部のほかに営業部もあって、江副浩正(元リクルート社長)らが活躍していた。島村はばりばり原稿を書いた。

 当時、島村が取材した人の名を挙げる。中根千枝(社会人類学者)、久野収(哲学者)、進藤純孝(文芸評論家)、小林直樹(憲法学者)、針生一郎(文芸・美術評論家)、稲葉三千男(社会学者、現・東久留米市長)、日高六郎(社会学者)、星野芳郎(技術評論家)…。一般紙の文化担当記者でもこんなに会っている人は少ないだろう。

 その後、東大新聞研究所の研究生になったり、仲間と学生のための総合オピニオン雑誌の発刊に携わり、その資金稼ぎのため、創刊前後の「女性セブン」で記者として働いたりしたが、結局ジャーナリズムの道には進まず、大学院で引き続き地球物理学を専攻することを決めた。

 「ジャーナリストは大マスコミの歯車になっているのが分かったし、モノを作る側にいたかったから」というのが島村の決断だった。

 そして、進学間もない64年6月16日、島村のその後の人生を左右する大きな出来事が起きた。新潟地震だ。午後1時1分に発生し、大きさはマグニチュード7・5。軟弱な地盤が地震の揺れで「液状化現象」を起こし、アパートが根元から倒れ、石油タンクが爆発して二週間燃え続けた。死者は26人を数えた。島村はまだ現地には行かせてもらえず、後方部隊として調査を支えたが、強い印象を受けた。被害の大きさもさることながら、この地震の発生自体が、当時の地震学の常識を大きく揺るがすものだったからだ。

 当時、新潟は地震については日本一安全といわれていた。

 「古文書を調べても、越後で大地震の記録は残っていない。だから地震は起きないと考えられていたのです」

 その場所で大きな地震が起きたことは、衝撃的だった。なぜ起きたのか。

 「父は医者として、国民病と言われた結核を根絶するのに力を尽くした。それなら、私は地震というものをとことん解明してやろうと思いました」

 理学博士となった島村は、東大助手を経て、72年、北大理学部助教授(地球物理学)に迎えられ、一貫して地震と取り組むことになる。

 どんな研究者だったのか。北大在学中に島村の指導を受けた東大地震研究所助教授の卜部卓は「研究もできるし、一般向けの本を書くなど多才な人。こんなすごい人がいるのかと刺激を受けた。はっきり物を言ってくれるので、付き合いやすかった」と言う。

 島村が選んだのは海だった。地球の表面の7割は海。陸の地震の研究はされているが、海の地震はまだ分からないことだらけだった。地震は陸でだけ起きるのではない。というより、むしろ海にこそ、地震のなぞを解明するカギがある─。

 「最近では、人工衛星で見れば分かってしまうという誤解があるが、とんでもない。空から見て分かることは限られているんです」

秋葉原と町工場が生んだ世界一の地震計

 海の地震を調べるのに必要となるのが、はじめに触れた海底地震計だが、これには、陸の地震計にはない難しさがある。震動を正確にキャッチする感度が必要なのに加えて、深海の高い水圧に耐えなくてはならない。方位や姿勢を自動的に正しく保たなくてはならないし、必要なときにちゃんと浮かび上がってきて、回収できなければいけない。しかも、世界各地で観測するのだから、小型軽量で同じものを安くたくさん作れなくてはいけない。

 そんな海底地震計は当時、世界のどこにもなかった。なかったら作る─。島村たちはまず地震計作りから始めた。

 だが、予算は乏しい。回路を作るためのICなどの部品は普通に買えば非常に高価だ。また大きな機械製作会社は、特殊な観測機器の部品などおいそれとは作ってくれない。

 だが日本には、島村たちを支える条件がそろっていた。秋葉原と羽田空港近くの町工場だ。秋葉原といえば、今でこそ、パソコンや家電の安売りで有名だが、もともとはラジオ少年やアマチュア無線家が集まるジャンク(中古品)やパーツ(部品)の店が軒を並べていた。根気よく捜せば大抵の物が手に入るし、値段も安い。島村たちはここで必要な部品をあさった。

 一方、市販していない部品は作らなくてはいけない。これは町工場に頼むことにした。日本の町工場には高い技術の蓄積がある。先端産業は、彼らなくしては成り立たないと言われるほどだ。こうして精度の高い部品が安定して確保できることになった。

 国は決して潤沢な予算を保証してくれなかったが、研究者の創意工夫と、町工場の高い技術、技能で作り出された海底地震計は、現在、他国の追随を許さない世界一の観測精度と実績を誇っている。

 どんな工夫がなされているか、最新型の海底地震計で見せてもらった。

 ガラスケースの中には「地球ごま」のように三次元で動く腕木がある。ケースを傾けると自動的に正しい姿勢になるのだが、これがあまり簡単に動くようだと、今度は地震の震動で動いてしまって、正しい計測ができない。確実に正しい姿勢をとらせ、しかも小さな震動では動かないようにするにはどうするか。ケースの底にどろりとした液体。粘度の高いシリコングリスだ。傾けると液体の粘りのため、中の装置がゆっくりと動く─。

 海底地震計は設置するのも大変だ。船をチャーターし、目的の海域で地震計を沈める。言葉で言うのは簡単だが、そんなに大きな船は用意できない。波が荒くて船酔いすることもたびたびだし、エンジンが止まって、漂流を余儀なくされることさえある。沈めた地震計は、超音波の信号を送って浮上させるのだが、呼んでも上がってこないことがある。そうなるとデータは取れないし、故障の原因が分からないので、対策の立てようがない。

 他の船が拾ってくれた地震計を調べたら、内蔵コンピューターがフリーズしていて、リセットしたら元に戻った─などと笑えぬ話も多い。

地震の予知はできるのか

 ところで、地震予知は果たして可能になったのか。あるいはごく近い将来、可能になる見通しは立つのか。噴火については、昨年、有珠で北大の岡田弘教授が予知し、住民を避難させた。地震についても、東海地震の記事がたびたび週刊誌の誌面をにぎわし、三月の芸予地震でも「予知」が話題になった。

 「残念ながら今のところ答えはノーです」

 島村はきっぱり言う。地震予知研究が国のプロジェクトとして行われたこの35年間、地球科学は大きな進歩を遂げた。これまでに理解できなかった地震についても研究が進んでいる。しかし、研究が進めば進むほど、地震というものは昔考えられていたよりずっと複雑なものであることが分かってきたのだ。

 「有珠は予測しやすい山で、データも豊富だから成功した。他の火山で同じようにはできない。まして噴火と地震は別物です」

 地震予知の難しさを、島村は「地震は妖怪」という言葉で表現する。雨水や地下水が地震を引き起こすことがある。ダムを造ったためにそれまでなかった地震が起き、死人やけが人が出たこともある。一方、トタン板や空港工事、地底のかび、鯨やネズミなどがさまざまな形で地震計を狂わせ、研究者たちをだまし続ける。「うるう秒」のような人間の盲点を突いて発生し、実態が解明できなかった地震さえある。それはまるで、人類の挑戦を退けるために、地球が次々とニセのしっぽを繰り出しているかのようだ。

 もちろん、地震の研究は続けなくてはいけない。本当のしっぽをつかむのはこれからなのだ。

 「だからこそ、何ができるのか。何ができないのか。はっきりさせる必要があるんです」

 ともすればばら色の未来だけを強調しがちな科学行政を、島村は批判的に見ている。

物書きとしても一流

 朝日新聞社「大学ランキング2000年版」の「97年メディア総合執筆者別発信度」で、島村は全国335位と上位にランクされた。新聞や雑誌に、どれだけたくさん文章を書いたかを示す数字だ。北海道新聞文化面「魚眼図」を含むさまざまな場所に書き続ける島村ならではと言えよう。

 島村の文章は魅力的で、科学の最先端とその周辺のさまざまな事情を分かりやすく描く。研究者同士の足の引っ張り合いなど、これまでにあまり触れられなかった部分も語る。

 冒頭の南極行をテーマにして話題になった「日本海の黙示録」について、本誌連載陣の一人だった故・黒田清が書いた書評を引用しよう。

 「本書は南極を舞台にした地球物理学者たちの労働のノンフィクションである(中略)。科学、探検、カネ、男女の葛藤|。大陸が裂け、海底が動く大きな自然の中での国際調査隊の現場がこんなにドラマティックなものとは知らなかった。科学の現場はまさにノンフィクションの宝庫であり、著者はその迫力を見事に活写して、新しい科学ノンフィクションを確立した」(月刊『宝石』、94年6月号)

 一方で、良質のミステリーを読むようななぞ解きの面白さにも満ちている。ブルーバックスの「教室ではおしえない地球のはなし」を読んで研究者になった学生もいたという。むしろ「理科系ぎらい」の人にこそ、読んでほしい本が多い。

 本人もそう思っているのか、タイトルのうまさも絶妙だ。「日本海の黙示録」といい、講談社出版文化賞を受けた「地球の腹と胸の内」(情報センター出版局)といい、最近発売された「地震は妖怪 騙された科学者たち」といい、思わず手に取ってみたくなる。本人は「編集者との共同作業」と謙遜するが、これも才能の現れだろう。

 寺田寅彦、中谷宇吉郎など、随筆家としても名をなした物理学者は多いが、島村がその優れた後継者であることは論議の余地がない。

人類誕生の秘話に挑む

地球の上を駆け巡る島村だが、政治のために研究が思うに任せないことは多い。

 西南極再訪はずっと計画しているが、アルゼンチンが極度の経済危機にあり、話がまとまりかけてはつぶれている。北極のように、冷戦が終わって観測しやすくなったところは例外だ。

 今、島村は紅海の出入り口にあるジブチに狙いを定めている。ここでは新しい海が生まれ、成長している。人類発祥の地とされる東アフリカ大地溝帯のすぐそばでもある。

 「地球の内部から出てきたガスや熱が、人類の誕生に影響しているのではないか。ぜひその手がかりをつかみたい」  「地球の腹と胸の内」が、人類誕生に一役買っていたかもしれないという壮大な仮説だ。だが、現地の政情は極度に不安定で行くことができないでいる。

 争いがなくなり、思う存分観測ができる日が一日も早く来ることを祈りたい。

(橘井 潤)


島村英紀氏プロフィル

1941年東京都生まれ。東大理学部卒、東大大学院修了。理学博士。北大理学部教授。北大海底地震観測施設長を経て、同大地震火山研究観測センター長。日本を代表する地震学者で、国際人工地震学会の会長を務めたこともある。著書は「日本海の黙示録」(三五館)、「地球の腹と胸の内」(情報センター出版局)「地震は妖怪 騙された科学者たち」(講談社+α新書)「地震と火山の島国」(岩波ジュニア新書)など。

筆者は北海道新聞出版局『道新Today』編集部記者(当時)。名文記者として名高い。2002年3月から北海道新聞・倶知安支局長、2005年から本社編集局編集委員、2007年3月から文化部デスク、2009年3月から北海道新聞北見支社報道部次長、2011年7月から本社文化部編集委員。

(なお、北海道新聞社の月刊誌『道新Today』は2003年8月を最後に休刊になりました。)

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