留萌市民文化誌『波灯』『波灯』第6号。1993年5月発行、100-112頁、連載その3

流浪の科学者

 アゾレス島で、インド人の科学者Dさんに会った。まわりが白人ばかりだから、浅黒い顔に白髪のDさんは島でもよく目立つ。

 アゾレス島とは大西洋の真ん中にある絶海の孤島である。インドからは遥かに遠い。日本ではもちろん、世界でも知っている人は少ない僻地である。

 ここはポルトガルの自治領だ。かつての海洋帝国、ポルトガル本土から1500キロも西にある。Dさんがなぜここにいるのか、それを語るのが本稿なのである。

 ヨーロッパの西の端をご存知だろうか。世界地図を見せないと信用しない人が多いのだが、イギリスよりも西に出っ張っているのがポルトガルである。

 大西洋に突き出したヨーロッパの西の端がロカ岬である。ポルトガルの首都リスボンから車で3時間ほどのところにある。日本の端である宗谷岬や納沙布岬と同じで、ヨーロッパの端にあるというだけで観光客が集まってくる観光名所だ。

 ヨーロッパの北の端であるノールカップはノルウェーの北端だが、同じ理由で、ここにはヒッチハイクでやって来たフランスの貧乏学生やオンボロの車に鞭打って辿りついたドイツの若者など、ヨーロッパの旅行者たちががよく訪れている。ロカ岬も多くのヨーロッパ人が年間を通して押し掛ける。

 さて、そのロカ岬から、遥か西の北米大陸の端、カナダ東端のニューファウンドランドまでの距離は約4000キロメートルほどある。そのほぼ真ん中にあるのがアゾレス諸島なのである。

 その地理的な位置から、古くは大西洋横断のオアシスだった。長距離飛行機時代の幕開け、大洋横断が水上飛行艇だった時代には、航続距離が限られていたから、アゾレス諸島はなくてはならない重要な途中寄港地であった。世界最初の海底電線が、この島を通ってヨーロッパとアメリカを結んだ歴史もある。

 いまでも大西洋を横断するヨットが必ず立ち寄る島でもある。島の港の岸壁は、この島を訪れた世界中のヨットがコンクリートの上に残した思い思いの色とりどりの絵や、各国語の文や詩で埋め尽くされている。

 アゾレス諸島は9つの島からなっているが、全部の島を合わせても面積は東京都の面積よりも狭い。北海道の面積に比べれば40分の1しかない。しかし、島は広くひろがっていて、東西には600キロメートルも離れた島々から成っている。

 こんなに島どうしが離れているから、島どうしの交流は簡単ではない。それゆえ、それぞれの島には固有の文化があり、言葉や話し方も微妙に違っている。

 A島の人々は話し方がのろまで仕事も遅い、とB島の人たちが言えば、A島の人々は、B島の人々はせかせかして嫌だ、という。

 島どうしの意地の張り合いも相当なもので、支庁や大学をどの島に持ってくるか、は常に政争の具になって来た。長野と松本と木曽福島が官庁や大学を取り合った長野県に似ているのである。いや、日本のどこでも、大なり小なり、同じようなことはあるのだろう。

 一 インド西岸

 かつてポルトガルは、国の面積は小さいものの、植民地帝国のひとつとして、世界中に植民地を持っていた。インド西岸のゴアもその一つだ。大きなインド大陸のごく一部がポルトガル領、ほとんどがイギリス領であった。ゴアの面積は4000平方キロメートル。埼玉県くらいしかない。

 ゴアはインド洋に面したボンベイから約400キロメートルほど海岸沿いに南下した国だった。いまは地図から消えた国である。1510年にポルトガルの植民地になって以来、ポルトガルの東洋貿易の拠点であった。それゆえ日本とも縁が深い。

 ゴアは日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの墓があるところでもある。宣教師にどんなウデが必要なのかは私は寡聞にして知らないが、ザビエルは日本に来る前、ゴアとその近くで2年間に3万人ものキリスト教信者を獲得した辣腕で知られている。

 日本でも熱心な伝道活動をしたあと、中国でも布教を試みた途中、広東の近くで倒れた。ゴアに墓が建てられたのは、ゴアが一番の活動の場であったからであろう。

 ゴアでは公用語はもちろんポルトガル語で、植民地支配の一環として、地元のインド人にもポルトガル語を使うことが強制された。学校でも、もちろんポルトガル語を学ぶことが義務である。

 しかし宗主国ポルトガルとしては、鞭だけではなくて飴も必要と考えたのだろうか、成績が良い子供には、特別にポルトガル本土へ送って高等教育を受けるチャンスを与えていた。

 いや、「飴」だけとはいえない。植民地から優秀な人材を引き抜いて、大ポルトガル帝国の繁栄に資するのは、植民地主義の保身術でもあったのである。

 インド人Dさんは目立ってよく出来る子供であった。それゆえ先生の目に止まって、選ばれて宗主国リスボンの大学へ入学することになった。Dさんにとってはもちろん名誉なことだったし、遥か遠くのヨーロッパで学問を積むことになるDさんは、親族の誇りでもあった。

 こうして大志を抱き、親や親戚の期待を背負ったDさんがヨーロッパへ旅立ったのは10代の終わりであった。

 Dさんはこうして親元を離れて大学時代を過ごした。生まれて始めてのヨーロッパも、肌の色が違うとはいえ、ポルトガル語が母国語のDさんにとっては言葉の不自由がないせいで、やがて慣れた。専攻したのは地球科学であった。

 しかし、Dさんがリスボンで勉学に励んでいるときに、世界史は音を立てて転換した。Dさんの人生にとっての大事件でもあった。

 インドが武力でゴアを併合したのである。1961年のことであった。インドは長い間のイギリスの支配から1947年に独立を果たして、新興国として意気が上がっていた。

 Dさんたちにとっての不幸は、インドやインドネシアの独立とは違って、ポルトガル領ゴアが新生ゴアとして独立したのではないことだった。ゴアは、言語も習慣も宗教も、そして生活レベルさえもが違う元イギリス領のインドに呑み込まれたしまったからであった。

 だから、故郷が独立したのではなくて、つまり、Dさんの故郷であり生まれて育った国であったゴアがなくなってしまったというべきであった。

 顔色や身体つきはインド人そのものとはいえ、Dさんが生まれる400年以上も前から、ゴアはポルトガル領ゴアというインドとは別の国だったのである。植民地とは言え、Dさんにとっては、先祖代々暮らしてきた、それなりにかけがえのない故郷であった。

 Dさんにとっての母国語はヒンディー語でも英語でもなくてポルトガル語だし、宗教はインドに多いヒンズー教でもイスラム教でもなくて、カトリックなのである。

二 アフリカ南西岸

 Dさんには衝撃であった。

 かけがえのない故郷がなくなってしまったばかりではない。生まれた町に帰ったとしてもポルトガル語の素養は役立たなくなってしまった。故郷は、風俗も習慣も生活も変わってしまった。独立して間もないインドにはDさんの専攻を必要とする職業もなかった。

 故郷を失ったDさんはポルトガルで勉学を続けるしかなかったのである。

 ポルトガルの大学を卒業したとはいえ、Dさんがポルトガルに職を得ることは不可能であった。植民地から追われたり、引き揚げてきたりしたポルトガル人が、ポルトガル国内に溢れかえっていたからである。

 そして卒業後、Dさんは同じポルトガル領のアンゴラに移る。アフリカ南西部の大西洋岸にある国である。緯度は南緯10度。面積は日本の3.3倍ほどの国だ。ここはゴアに遅れること約半世紀、1575年以来ポルトガルの植民地であった。

 Dさんがアンゴラに移ったのは、ここでは、鉱山技師の職があったからだ。

 アンゴラではポルトガル語も使え、大学で学んだ専門が生かせる。その意味ではDさんにとっては新天地での門出であった。

 アンゴラは資源が豊富な国であった。なかでも1917年にダイヤモンドが発見されてからは、ダイヤモンドをはじめ、各種の鉱物資源の探査が重要な事業になっていた。職を得たDさんにとっては幸運と言うべきだが、この職業は、選び得る、ほとんど唯一の選択でもあった。

 しかし、アフリカの気候は厳しく、また山師としての仕事はきつかった。早朝から夜まで、猛獣や毒蛇におびえながら、熱砂の山岳地帯を足を棒にして歩き回る仕事である。しかしダイヤモンドの原石は、なかなか見つかるものではない。こういった探査を繰り返す日々が続いた。

 Dさんの顔に年齢よりも多くのシワが刻まれているのは、この苦労のせいだ。アゾレス諸島で私が初めてDさんに会ったときには、老人かと思ったほどである。

 朝から晩まで山ばかり歩いている仕事ゆえ、Dさんは女性に遇うこともなく、結婚の機会も逸しかけていた。しかし、この仕事を続ける以外に、Dさんには生きる術はなかったのである。

 しかしアンゴラでも、またDさんは衝撃にあう。

 一九七五年にアンゴラはポルトガルから独立したのである。ポルトガルだけではない。かつて植民地の宗主国として栄華を誇ったフランスもイギリスもベルギーもオランダも、世界のあちこちで次々に植民地を失いながら、多くの血が流されていた時代だったのである。

 独立にもいろいろある。流血のもの、平和裏のもの。当面の喜びが経済の苦しみに変わったもの。

 しかし悪いことに、アンゴラの独立は地獄絵になってしまった。3つに分かれた解放組織がお互いに抗争を続けたばかりでなく、ソ連や米国や南アフリカなど外国の勢力が、泥沼の抗争を闘う派閥を、各様の思惑を込めてそれぞれ支援していた。アンゴラの独立は、経済や民生の安定や民族の誇りどころか、激しい内戦をもたらしただけのようだった。内戦は、その後現在まで、ほとんど休みなしに続いている。

 こうしてDさんは職を失った。

 いや、職どころか、家も、わずかに蓄えた財産も捨てて、命からがら逃げ出さざるを得なかったのが独立後のアンゴラだったのである。

三 大西洋の孤島

 そして無一文になった失意のDさんがようやく得た職が大西洋の孤島、アゾレス島の小さな気象台の職だった。インドからアフリカ、そしてヨーロッパを飛び越えて大西洋の孤島へ。地球半周にもなる長い流浪の旅であった。

 Dさんがようやく得た職は、いままでの鉱物探査の経験は生かせない職だが、贅沢は言えない。地震計のお守りという、地味だが責任が重い仕事である。彼はいま、ポルトガル気象庁の地方職員である。世界のどこで、いつ起きるか分からない地震を観測するためには、地震計はいつも動き続けていなければならない。どんな小さな故障も許されないのが地震観測なのである。

 ポルトガル気象庁の職員という公務員とはいえ、現地採用で僻地勤務のDさんは給料も安い。しかし、アンゴラの混乱と比べれば、この孤島はなんと静かで平和なのだろう。Dさんは人生50年にして平和をようやく掴むことが出来たのである。

 Dさんがアゾレス諸島に来て、もうひとつ掴んだ幸せがあった。

 それは、伴侶をようやく見つけたことだ。

 晩婚だった。その伴侶も、やはりインド大陸のゴア生まれで流浪を続けてきた 夫人もDさんとは別の道ながら、インドから西へ、西へと流れてきていたのである。 夫人には夫人の苦労があった。

 二人とも人種的にはインド人だ。しかし、話す言葉はポルトガル語である。宗教はカトリックである。二人とも、生まれてから一度も交点を持ったことがないインドという国には、関心がないわけではないが、愛着があるわけではない。

 世界には祖国が「なくなって」しまった人々は、ずいぶん多いのである。彼らのとっての「祖国」や「国家」や「国旗」や「国歌」がどんなものなのか、私たち日本人には想像すべくもないことなのである。

 じつはアゾレス諸島は、戦争や独立はないものの、地震も火山噴火もあって、地球物理学的には「危ない」島なのである。

 しかしDさんにとっては、その危なさゆえに、いまの職業を得ることが出来た事情がある。それ以上の贅沢は、流浪を続けてきたDさんにとっては、もう夢見ることも出来ないほど遠いものなのである。

 その事情は、いささか複雑である。

 アゾレス諸島の人口は25万人だが、じつは米国には島民の4倍、100万人ものアゾレス島系米国人がいる。

 アゾレス諸島とは、つまり移民の島なのである。島では食えなくて、東の本国ではなく、より豊かな西の米国へ流出した人々がいかに多かったかを、この数字は物語っている。

 島の人々を追い立てたのは地震と火山であった。ユーラシアプレート、アフリカプレート、北米プレートという三つの巨大なプレートが同時に生まれているこのアゾレス諸島では、地震も噴火も多い。

 なかでも1957年から続いた激しい地震とその後の噴火で、多くの人は島に見切りをつけざるを得なかった。

 しかし移民した先の道も平坦だったわけではない。島にもともと居た人たちは白人ではあるが、貧しい島から来た島民は、貧しさとポルトガル語圏ゆえの英語の不自由さからか、米国で人種差別さえ受けたという。

 アゾレス島系の人々は米国西海岸のカリフォルニアに六割、東海岸のボストン近辺に4割が住む。東海岸は流れ着いた場所に近いがゆえ、そして西海岸は人種差別が少ない新天地を求めたのである。

 こうして旧アゾレス島民は、肩を寄せ合って暮しながら歯を食いしばって三、四〇年間も働いてきた。ようやく米国社会にとけ込んだのが現在なのだ。

 私が訪れたとき、アゾレス島の海岸で、ポルトガルと米国、二つの旗を翻している家があった。一家は元アゾレス島民だが、いまは米国での事業にも成功して、米国籍を貰うことが出来た。これで一家や子孫は米国人としての権利を享受することが出来る。一家は三世代からなる大きな一家で、夏休みを故郷に残した家で過ごしているところであった。

 一家の家は、眼の前に海を臨む風光明媚なところだ。

 噴火も地震も収まったいまは、夏を過ごすには、これほど良いところはあるまい。あまり知られてはいないが、アゾレス諸島はヨーロッパ人の隠れた保養地になっているほど、一年を通じて気候は温暖なところなのである。

 この一家と違って、ここに住み続けるDさんにとっても、この大西洋の孤島は、人生で初めて得た気候温暖、安穏の地なのである。しかし、また将来、地震や噴火が起こらないとは限らない。激動を繰り返してきたDさんの運命が、また変わらなければいいのだが。

 ところで、自国よりは米国に多くの人々がいる国は少なくはない。ノルウェーもそのひとつだ。アイルランドやポーランドもそれに近い。日本も南米や北米に多くの移民を送り出したが、全部合わせても、けして日本の人口ほどではない。

 移民を送り出した事情は国によって異なる。ノルウェー人やポーランド人を追い出したのは地震ではなく、冷害と不作であった。

 同時に二つの旗を立てて、両国に愛情を持って尽す人々。米国のほうから言えば、米国の活力は、こういった移民が支えていることになる。移民は米国の活力の元なのだ。日系移民も米国に尽している意味では例外ではない。

 ところで、Dさんも気象庁の仕事を通してポルトガルを支えている一人である。しかし故郷がなくなってしまった彼には、立てるべき二つ目の旗はない。
 Dさんの一人息子はいま四歳。やんちゃ盛りで、借りているアパートの壁紙をほとんど破り取ってしまった。しかしDさんは怒らない。Dさん夫婦は大変な子煩悩なのである。

 子供にすべてを託したい、子供だけには、自分たちのような道を歩かせたくはない、というのが夫婦の願いなのである。そもそも何語を教えるのか、将来、どんな方面に進ませるのか、それがDさん夫婦の最大の関心であり、また生きがいなのだ。

 つまりDさんは、自分の人生を世界史にモミクチャにされた科学者なのである。人生はやり直せるものではない。けれども、せめて自分に代わって子供に人生をやり直して欲しい、と思っているに違いない。

【参考:島村英紀、今までの『波灯』寄稿】
■:地震学者が大地震に遭ったとき-----関東大震災から二ヶ月間の今村明恒の日記・注釈付きの現代語訳 『波灯』第23号(2010年6月発行)、連載その11{400字で約100枚}
■:世界でいちばん人口が減った島 『波灯』第20号(2007年6月発行)、連載その10{400字で約50枚}
■:ウサギの言い分 『波灯』第19号(2006年5月発行)、連載その9{400字で約35枚}
■:世界でいちばんたくましい国 『波灯』第17号(2004年5月発行)、連載その8{400字で約35枚}
■:世界でいちばん雨が多い国 『波灯』第16号(2003年5月発行)、連載その7{400字で約33枚}
■:世界でいちばん危ない国 『波灯』第14号(2001年5月30日発行)、92-114頁、連載その6{400百字で約62枚}
■:世界でいちばんケチな国 『波灯』第8号(1995年6月10日発行)、16-24頁、連載その5{400字で約23枚}
■:流浪の科学者 『波灯』第7号(1994年5月20日発行)、13-19頁、連載その4{400字で約19枚}
■:世界でいちばん楽天的な国 『波灯』第6号(1993年5月10日発行)、100-112頁、連載その3{400字で約35枚}
■:世界でいちばん過疎の国 『波灯』第5号(1992年4月発行)、24-32頁、連載その2{400字で25枚}
■:オトギの国で過ごした夏 『波灯』第4号(1991年4月発行)、172-181頁、連載その1{400字で25枚}

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