『魚眼図』(北海道新聞・文化面)、2002年11月19日夕刊〔No.297〕

地球物理学者の教え子

 修士課程の大学院生が、来年春に就職することになった。この二年間にニュージーランド、トルコ、カリブ海、北極海のスピッツベルゲンと、熱帯から極地までのフィールド調査をともにしてくれた学生である。

 この不景気な時代。就職先を見つけるのはなかなか大変だった。ようやく見つけた先が、ソフトウエア会社、つまりコンピューターのプログラムを作る仕事だった。近年、北大の学生を一番採用してくれる業種の一つである。

 会社は彼女に解説書や問題集を送りつけてきた。頭に入ったかどうか、年内に「試験」までして、それで将来の昇級が決まるという。卒業までに地球物理学のいい修士論文を作ってほしい教師の立場としては、いささか不満なのだが、世知辛い世の中だから、会社としては即戦力を求めているのも無理はなかろう。

 彼女は某経済新聞の購読を始めた。社会人になるために、田舎の祖父がこの秋から来春まで先払いしてくれた新聞だ。どのページも難解らしく、正直なところ、今は第一面だけを拾い読みしている程度だという。

 教師として悲しいことは、私たちが教えた学問が、当の学生にも、会社にも何の役にも立ちそうもないことだ。実際、地球物理学が役に立てる職場というのは、ごく限られている。私たちが教えているのが、医学はもちろん、たとえば哲学だったり社会学だったとしても、なにがしかを学生の心や将来に残すことができるかもしれないのだが。

 学生を世の中に送り出すのが役目とはいえ、ほろ苦い心情を抑えきれないのが、地球物理学者なのである。

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