地震学会ニュースレター Vol.14.No.6 (2003.3.10発行)

浅田 敏 先生のご逝去を悼む

 浅田敏先生は、2003年1月10日に逝去された。享年83歳。そのわずか数日前にお元気な声で電話を受けた弟子もおり、誰もが予想しなかった突然のことであった。

 先生の輝かしいご業績は、履歴にもあるように、地震予知連絡会、地震防災対策観測強化地域判定会、測地学審議会、学術審議会などでのご活躍はすでによく知られている。各種委員会の委員長や会長の要職も果たされた。他人の話の理解が早く、調整役としての温厚な人柄と、天性のユーモアも兼ね備えていたことは万人の知るところであった。

 しかし、それとともに特筆すべきことは、先生は、生涯を通じて一人の研究者であったことである。それも、他人が取ったデータや既存のデータでは決して満足せず、ご自分でデータを取ることに、最後まで執着なさっておられた。

 自分でデータを取れるようになるまでの道は、一般には平坦なものではない。いままでにはなかった道具から作り始めなければならないことがよくある、いや、そのことのほうが普通だった。

 先生の半世紀を超える研究者の人生のうちの多くは、新しい道具作りに割かれたといっても過言ではない。私が知る限り、主なものだけでも、超高感度の陸上用地震計が最初で、その後に海底地震計、次いで高感度傾斜計、そして最後に情熱を傾けておられたのが空中を飛び交う地震関連の電波の受信装置があった。

 私が先生とご一緒に仕事を始めたのは1960年代から、つまり私が学部を卒業して大学院に入ったとき以来だった。当時、東京大学理学部には錚々たる先生がひしめきあっておられ、第一線の研究や測器の開発は理学部で、そしてそれがルーティンになったら東京大学地震研究所に任せるといった気風や伝統があった。この測器重視の気風は、東大の地球物理学教室だけではなくて、兄弟分の物理学科や天文学科でも実験物理学の強い伝統があり、その一環であったとも言える。

 私が入ったころの先生は、地震計の感震器の感度を極限まで上げ、初めは電子管、やがて半導体を使って、いかに高感度で低雑音の増幅器を作るかに心を砕いておられた。

 このため、どうすれば感震器内のコイルが動く場所の磁界をいかに強く、いかに均一にするかといった、まるでモーターや発電機の技術者のようなことから、サーッという雑音に悩まされていた当時の最高レベルの音楽再生装置を超える低雑音の電子管選びやその動作条件といったオーディオ技術者のようなこと、そして、それまでの主流だった紙やフィルムに記録する記録方式から、フィルターやスタッキングといった後処理が可能になる磁気テープへの記録方式の開発まで、つまり、ほとんど前人未踏だった高感度の地震観測システムをそれぞれの構成部品から作り上げていらっしゃったのであった。

 私が憶えている限り、先生の爪の先端の裏側は、いつも油で汚れていた。ご自分の机に座っていることは滅多になく、時間があれば実験室で機械をいじっていたり、オシロスコープを覗き込んでいたり、はんだごてを握っていることが多かった。こうした努力の結果が、世界で初めて微小地震の存在を明らかにして、研究的な地震観測として微小地震観測が当たり前になる時代を開拓することになったのである。

 陸上用の地震観測装置は年々改良を重ね、一昔前は貨車一台を借り切って現場での観測に赴くのが普通だったのが、やがては旅行用のトランク1台の大きさにすることが出来た。この大きさになれば、適当な耐圧容器さえ作れれば海底地震計が作れる。時はあたかも、プレート・テクトニクスや海洋底拡大説の黎明期で、たとえばプレートが生まれるところも消え去るところも海底だということが分かり、海底地震計というものが作れれば、地球科学の重要な謎がいくつも解けるはずだということが知れ渡った時代だった。

 しかし、海底地震計は先生の研究の中で、もっとも手こずったものであったに違いない。強大な水圧。もし海底から帰ってこなかったら、機械やデータだけではなくて、失敗の手がかりさえ失う辛さ。また、帰ってきたとしても、たまたま、たった一カ所のはんだ付けの外れで、記録を全く取っていないこともあった。海での観測はやり直しがきかない。陸上観測なら、次の日に見て動作していなかったら、機械を開けて直せばすむ。海底地震計は宇宙飛行並みの信頼性を必要とする高度の技術であった。

 それだけではない。海底地震計のために船に乗り始めた先生は、すでに50歳だったこともあり、船の揺れにはことのほか弱かった。研究のためにこんな難儀をすることになるとは、思っていらっしゃらなかったに違いない。

 当時は、世界の多くのチームが海底地震計の開発に走っていた。どこも同じような困難に直面して、ほとんどのチームが撤退していった後に、先生が主導した海底地震計が勝ち残ったのは、先生の知識と経験とアイデア、そして倦まざる努力と情熱によるものである。

  中でも、次々にアイデアを生み出し、それをすぐにテストし、客観的に評価して次のアイデアに結びつける能力は先生の独壇場であった。また、海底地震計といった海のものとも山のものとも分からない機械を海底に設置してくれる船を何回も借りることができたのも、先生の人柄と人脈のおかげだった。

 その後に取り組まれた傾斜計や電波の受信装置も、今までにないものが作られていた。新しい機械で観測した結果には新しい発見があり、生来の話好きの性質もあって、多くの人たちが、浅田先生の発見について熱っぽく語る成果を聞くことになった。先生の話好きと電話好きは有名で、研究について研究者仲間や大学院生と話をすることが大好きだった。

 これらの機械は、地震予知に関連している。地震予知が可能かどうか、は古くて新しい議論だが、先生はこの種の議論から意識的に距離を置いていらっしゃったように見える。先生には、この議論とは別の哲学があった。いま行われている観測だけで地震予知が可能かどうか議論するのは生産的ではない、もっと観測を洗練すれば、今まで見えなかった現象が見えてくるのではないか、それこそが取り組むべき課題だ、という哲学である。「武装」になぞらえて「計装」を、と提唱されていた。

 もちろん、先生はご自分が開発した観測だけを重用していたわけではない。学問全体を見渡す高度の理解力と的確な判断力もお持ちで、たとえば、化学的な研究手法を地震観測に持ち込もうとなさって、東京大学理学部の地殻化学実験施設の設立に奔走なさった。

 地震学は象牙の塔にこもって研究する学問ではなくて、社会に近い学問、一般の人々に影響が大きい学問でもある。その意味では、先生は、研究者の役割のほかに、行政の役割やジャーナリズムの役割についても、的確に把握していらっしゃった。各種の審議会や委員会などを通じて行政に働きかけるのはもちろん、時として行政にブレーキをかけ、世論を喚起するジャーナリズムにも期待したり、たまには失望したりすることもあったように見えた。ある記者が現場から離れて栄転したときに、牙を失ってしまって、と呟かれたこともある。

 先代から続いた、そして奥様の係累にも多い文化人の系譜におられ、驚くほど柔軟な考え方を持っておられたがゆえに、固定観念や頑固さをとくに嫌われた。その思想は新鮮、ときには過激なほどであった。そして、それゆえ、最後まで、新しいものに挑戦し続けたのであろう。

 こうして、先生は多くの影響を、学会に、そして弟子や知人にも、広く、また深く与えてくださった。

 心よりのご冥福をお祈りいたします。

【以下は地震学会の篠原雅尚氏による履歴に、一部島村英紀が加筆】

故 淺田 敏 (先生)
大正8年12月15日 東京府落合村にご出生

【略歴】

東京第三師範(現東京学芸大学)附属豊島小学校、私立開成中学校、(結核のために温暖の地を選ばれて)旧制静岡高校を経て

昭和19年(1944)東京帝国大学理学部地球物理学科卒業
昭和19年(1944)東京帝国大学助手理学部
昭和30年(1955)東京大学助教授(理学部)
昭和33年(1958)理学博士(東京大学)
昭和33年(1958)地球物理学研究連絡委員会委員 昭和36年(1961)まで
昭和41年(1966)東京大学教授(理学部)
昭和41年(1966)東京大学教授(地震研究所)併任 昭和52年(1977)まで
昭和42年(1967)東京大学大学院理学系研究科地球物理学課程主任 昭和43年(1968)まで
昭和43年(1968)地震学会委員長 昭和44年(1969)まで
昭和44年(1969)地震予知連絡会委員 昭和60年(1985)まで
昭和45年(1970)測地学審議会委員 昭和47年(1972)まで
昭和46年(1971)東京大学大学院理学系研究科地球物理学課程主任 昭和47年(1972)まで
昭和47年(1972)地球物理学研究連絡委員会委員 昭和56年(1981)まで
昭和48年(1973)測地学審議会委員 昭和52年(1977)まで
昭和49年(1974)火山噴火予知連絡会委員 昭和56年(1981)まで
昭和50年(1975)東京大学大学院理学系研究科地球物理学課程主任 昭和51年(1976)まで
昭和50年(1975)国際協力事業特別委員会(GDP) 昭和56年(1981)まで
昭和50年(1975)気象審議会委員 昭和59年(1984)まで
昭和52年(1977)測地審議会委員 昭和58年(1983)まで
昭和53年(1978)消防審議会委員 昭和63年(1988)まで
昭和53年(1978)東京大学大学院理学系研究科地球物理学課程主任 昭和54年(1979)まで
昭和53年(1978)地震予知研究協議会議長 昭和55年(1980)まで
昭和54年(1979)東京大学理学部附属地殻化学実験施設長 昭和55年(1980)まで
昭和54年(1979)地震防災対策強化地域判定会委員 昭和56年(1981)まで
昭和55年(1980)科学技術会議(研究目標部会)専門委員 昭和56年(1981)まで
昭和55年(1980)停年により東京大学退官
昭和55年(1980)東京大学名誉教授
昭和55年(1980)東海大学教授(開発技術研究所)
昭和56年(1981)地震防災対策強化地域判定会会長 平成3年(1991)まで
昭和56年(1981)地震予知連絡会会長 平成3年(1991)まで
昭和56年(1981)科学技術会議(研究調査委員会)専門委員 昭和58年(1983)まで
昭和57年(1982)学術審議会委員 平成2年(1990)まで
昭和58年(1983)科学技術会議(政策委員会研究調査小委員会)専門委員 昭和60年(1985)まで
昭和60年(1985)測地審議会会長 平成6年(1994)まで
昭和60年(1985)地球物理学研究連絡委員会委員 平成3年(1991)まで
昭和60年(1985)日本学術会議会員 平成3年(1991)まで
平成元年(1989)東海大学(開発技術研究所)特任教授
平成2年 (1990)日本地震学会名誉会員
平成5年 (1993)東海大学名誉客員教授

受賞歴
昭和59年(1984)紫綬褒章
昭和60年(1985)防災功労者
昭和60年(1985)地球物理学国際協力記念賞
昭和60年(1985)交通文化章
平成2年 (1990)勲二等瑞宝章

代表的な著書(抜粋)
地震---発生・災害・予知 東京大学出版会 1972年
関東・東海地震と予知 岩波書店 昭和59年(1984)

代表的な論文(抜粋)

Asada, T, and Z. Suzuki, On microearthquakes having accompanied aftershocks of the Fukui Earthquake of June 28, 1948, Geophysical Notes, 2, 16, 1-14, 1949

Asada, T., and S. Asano, Explosion seismology I crustal structures of Honshu, Japan, The crust and upper mantle of the Japanese Area. Part I., Geophysics Japanese National Committee for Upper Mantle Project, p45, 1972

Asada, T., and H. Shimamura, Long-range refraction experiments in deep ocean, Tectonophysics, 56, 67-82, 1979

このほか、浅田敏先生の車について

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