島村英紀が南極(西南極)で撮った写真

島村英紀『日本海の黙示録----「地球の新説」に挑む南極科学者の哀愁』に掲載した写真をカラーで見てみれば、ほか。島村英紀撮影)


表紙カバー

椅子も窓もない貨物用の輸送機でマランビオ南極基地に着いたら、ちょうど夜明けだった。あちこちに浮かぶ氷山が朝日に映えて美しい。


85頁:アルゼンチンの砕氷船『イリサール』

「船橋が高くて横に張り出しているのは氷を見張るためだ」。私はマランビオ南極基地から南シェットランド諸島にあるジュバニー南極基地まで、この砕氷船に乗せてもらった。世界でも有数の巨大な砕氷船だ。

明らかな定員超過、すし詰めの船内だった。廊下にも人が寝ていた。食事は交代制。救命具も足りなかった。しかし、これがラテンの国なのである。

フィンランド製らしく船内に立派なサウナがあるが、アルゼンチン人には無用の長物だ。せっかくのサウナは物置になっていた。

【追記】なお、この砕氷船『イリサール』は2007年4月11日、南極から帰る途中、パタゴニア沖で火災を発生、全員、避難のため退船という事故に遭った。幸い、沈没には至らず、船の15%を焼いただけで、ブエノスアイレスまで曳航されて帰ってきて、修理を行った。
エンジンルームのタービンが発火したため、と言われている。

しかし、その修理の間、アルゼンチンの南極観測は、大いに影響を受け、ブラジルから臨時に耐氷船を借りたり、南極域だけで英国の砕氷船の助けを借りたりして、苦しいやりくりをしている。『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』に書いたように、アルゼンチンにとって、英国は「敵国」であり、助けを求めるのは、心穏やかではないに違いない。

氷山を左右に縫ったり蹴散らしたりしながら進む砕氷船『イリサール』の船橋。緊張が走る。

船全体に、地震のような震動が伝わる。船内を歩いていると、よろけるほどだ。

(この写真は本には載せてありません)


私はブエノスアイレスから南極・マランビオ南極基地(アルゼンチン)まで、C130輸送機で飛んだ。

大変な超満員の機内で、一人一つという荷物の制限もものかわ、足の踏み場もなく、身動きも出来ない長時間飛行だった。もちろん、外は全く見えないし、食事も飲み物も出ない。

心理学者、生物学者など女性も目立つ。中央がこの本の「主役」の一人であるペレッティ氏。心理学者が最初の飛行機に乗っているのは、越冬生活を終わりかけている隊員を心理学的に「観察」するためである。

マランビオ南極基地からジュバニー南極基地まで、砕氷船『イリサール』に乗った。アルゼンチンの南極基地で、この種の大型の飛行機が着けるのは、マランビオ南極基地だけである。

(この写真は本には載せてありません。なお写真に写っているのは全体の半分の幅の貨物室である。この写真の右側にも、人と荷物がいっぱいに詰まっている。)


ブエノスアイレスで乗り込む「乗客」たち。

アルゼンチンは南極を領土だと主張している。エスペランザ基地には小学校があり、通学している児童がいる。つまり、実効的な領土であることを世界に主張しているのである。

なお、チリも同じように領土の主張をしている。また、アルゼンチンとチリが主張している「領土」は、英国も凍結しているとはいえ領土権を主張しているところと重複している。

【2013年7月に追記】アルゼンチン国内で売られている地図には、右の写真のように、南極もアルゼンチンの領土として、明確に記されている。パイを切り分けたように、南極点まで南極大陸を切り分けているのである。

南極をめぐる「政治」は、私が『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』に書いたように、とても複雑なのである。

この飛行機にも、子供とその母親が乗っていた。母親は小学校の先生だ。

(この写真は本には載せてありません)


マランビオ南極基地から南シェットランド諸島にあるジュバニー南極基地(アルゼンチン)までは砕氷船『イリサール』に乗った。

氷山は、形も色もさまざまだ。人工的に角形に切ったような真っ平らなものもあり、手前のもののように、どこで汚れたのか、茶色で海面すれすれのものもある。

平らな氷山は、向こうに見える南極大陸から押し出されてきた氷河が海に落ちて出来る「棚氷」である。

言うまでもないが、遠くで船や集落のように見えるものも、すべて氷山である。この写真の中には、人工的なものはなにひとつない。南極で遭難したり、船に置いていかれた人たち(『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』参照)は、これら遠くの氷山に、何度も、迎えに着てくれた船の幻影を見たのであろう。

(この写真は本には載せてありません)


氷山は北極海にもあるが、南極海が北極海と違うことは、上が真っ平らな、テーブル型の氷山があることだ。

これは、南極大陸を覆っている氷河が流れ落ちてきて、そのまま海に押し出されて浮いているものだ。北極海の海山はごつごつした山の形をしているものが多い。

海面からの高さは、ちょっとした中層ビルくらいの高さがある。つまり、船よりはずっと高い。船が衝突したら、もちろん、ひとたまりもない。

(この写真は本には載せてありません)

よく知られていることだが、海面上に見える氷山は「氷山の一角」にしかすぎない。この図はドイツのアルフレッド・ウェーゲナー研究所(ドイツの極地研究所でもある)のホームページにある氷山の絵。

氷山を実際に見ているときには忘れられがちな「氷山の縁の下の力持ち」をリアルに表している。

111頁:グーターヒ隊長(左)とヤヌシュ副隊長

二人とも、ワルシャワにあるポーランド科学アカデミー地球物理学研究所の科学者である。 グーターヒ博士は、欧州でも地下構造研究のための地震探査を精力的に行っている。

私たちの南極での研究は、このポーランド科学アカデミー地球物理学研究所とアルゼンチン国立南極研究所と、当時島村英紀が在職していた北海道大学理学部の三者の共同であった。


115頁:ポーランドの砕氷船『ネプチュニア』

1085トン。外洋タグボートで47名が乗り組んでいた(南シェットランド諸島・キングジョージ島にあるジュバニー南極基地沖の氷河の入り江で)。砕氷船『イリサール』よりもずっと小さく、すさまじく揺れた。

なお、南シェットランド諸島は英国の東北沖に寂しく浮いている孤島、シェットランド諸島から名付けられたものだ。

(ポーランドの経済がその後も思わしくなかったので、数年後にこの船は外国に売られていった)。

ジュバニー南極基地の目の前では、ゆっくりと斜面を流れ降りている氷河が海に崩れ落ちる。ときどき雷のような音がとどろき、息をのむ光景だ。

氷河の割れ目から覗く内部は、吸い込まれるような青さだ。

(この写真はカラー印刷でないと映えないので、本には載せてありません)


141頁:ジュバニー南極基地にある奇岩、三兄弟山。火山のマグマが固まった”マグマの石碑”だ

火山噴火の最後のステージで、火道(噴火口から下に続いているマグマの通り道)に詰まったマグマが固まったもの。

山体を作る岩のほうが柔らかいから、その後の浸食によって、火道の中にあった「元マグマ」がこのように残ったものだ。英語ではplug(瓶や風呂桶などの栓)と言われる。日本語では地質学の用語として岩頸(がんけい)と言われる。

なんとも不思議な形だ。日本人には馴染みがない、と思う人も多いだろう。しかし、 宮沢賢治は『楢ノ木大学士の野宿』のなかで、この三兄弟ならぬ岩頸四兄弟の寓話を書いている。

宮沢賢治は、これほど見事な岩頸を見たことはないはずだ。賢治が岩頸のモデルにしたのは、盛岡の西南西の郊外にある
南昌山ではないかと言われている。だが、南昌山は、この南極の岩頸に比べると、なんともなだらかな釣り鐘のような山にすぎない。

しかし、この南極の岩頸を見ると、いまにも、岩の兄弟が、まるで賢治が描いたように、話しかけてきそうな気分に引き込まれる。海抜は196m。上の写真で海岸近くに見える、南極基地の小屋と比べてみると、その雄大さがわかる。

このプラグを側面から見ると、右の写真のように、とても登れないほど鋭い稜線が見える。火山のエネルギーが作った自然の造形である。
(この写真は本には載せてありません)

このようなプラグは、南極には限らない。パプアニューギニアのラバウルには、別のプラグがある。

西南極・キングジョージ島・ジュバニー南極基地で。
海岸線に見えるのは南極基地の建物である。

102頁:いつのまにかアザラシが私たちの荷物の間に入って、昼寝をしていた。西南極・キングジョージ島・ジュバニー南極基地で。

野生のアザラシは、写真のように、痛々しい傷が付いているものが多い。後方は私たちが乗った『ネプチュニア』号。

なお、どの国でもそうだろうが、南極に運ぶ荷物には、それぞれに重さと体積が明瞭に書かれている。大量の荷物を能率よく運ばなければならないためである。

(この写真は本には載せてありません)


ジュバニー南極基地付近の海図。

アザラシの群生地であることがアザラシのマークで示されている。

なお、この地図の右上の端にあるのは、基地に病人や怪我人が出たときに、マランビオ南極基地からスキーを履いたTwin Otterという小型飛行機で来て貰うための着陸地点である。

病人や怪我人は何人かがかりで、ここまで運び上げなければならない。ヘリコプターで来るには、あまりに遠い距離なのである。

もちろん、この地図にあるようなT字型の立派な滑走路が整備されているわけではない。これは単なる地図の記号で、この辺の平らそうなところに、腕のいいパイロットなら着陸できる、という印なのである。

(この写真は本には載せてありません)


Cape Pigeonの群

南米と南極の間にあるドレーク海峡から南では、Cape Pigeon(岬の鳩)といわれる多くの鳥が乱舞している。


白い派手な模様が点々と入った黒い美しい鳥で、風に乗って舞いながら、魚を探している。風が強くて荒れるので有名なドレーク海峡だが、この鳥たちは、なにごともないかのように、どんな強風の中でも、いつも飛び回っている。

(以下は島村英紀『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』から)

 ドレーク海峡は、荒れるので世界でも有名な海峡で、マゼランが世界一周の航海で、もっともてこずったところである。このドレーク海峡を越えたことがある船乗りは、人と話すときに、机の上に足を投げ出したままでいい、というのが世界の船乗りの決まりだというほどだ。私の場合、帰りは船で越えたから、資格は十分にあることになる。

(これらの写真は本には載せてありません)


149頁:南極海で世界初の海底地震計設置。

ガラスの球に入った精密機械だけに、船が揺れると危険でたいへんな作業である。南極海は、いつも私たちを苦しめてくれた
。こちらが避けたつもりでも、向こうから動いてくる氷山は海底地震観測の大いなる邪魔である。

ポーランドの砕氷船『ネプチュニア』で。


191頁:火薬100キロとともに、爆破のマイスターら5人が乗り組んでいる。

砕氷船『ネプチュニア』に備えてある南極海用の特殊救命艇。

温帯や熱帯で使う救命艇と違って、蓋を閉めて密閉できるようになっている。しかし、エンジンは内部にあるために、中はとてもうるさい。また、窓がないために、外の景色を見ることが出来るのは、立って運転している士官一人だけである。


209頁:デセプション島

クジラから油をとる英国の工場の廃墟。おびただしいクジラの骨が散乱している。かつて英国は大量のクジラを殺して、油だけを取った。

英国はなにも片づけずに、撤退してしまった。錆びたタンクや飛行機までが(下の写真)捨てられている。勝手なものだ。

デセプション島は南極には珍しい火山島なので、地熱で雪が融けて地面が出ている。また、外輪山のドーナッツ型の一部が切れた形をしているので、外が荒れていても中に入れば、嵐を避けることが出来る天然の避難地でもある。

【2013年7月に追記】 ここデセプション島には、英国空軍の飛行機が捨ててあった。クジラから油をとる工場が操業を止めたあと、1944年から英国は南極基地として、ここを使っていた。しかし、1969年にデセプション島の噴火があり、撤退してしまった。

 ちなみに、ここデセプション島では、アルゼンチンが領土宣言をした記念碑を1943年に英国が引き倒して自国の記念碑を建ててしまった。この事件以来、両国の睨み合いが続き、1952年には両国の海軍がデセプション島で遭遇して発砲事件を起こすまでに緊張が高まったことがある。

デセプション島は火山島で、外輪山がまわりにそびえている。火山のカルデラが湾になっていて、その湾が切れているところから船が出入りできる。

そのほか、外輪山がたまたま平に凹んでいるところがあって、「窓」と呼ばれている。この「窓」をかすめて進入してくると、この猫の額のような狭い工場前の黒い火山灰の砂地に着陸できるというわけだった。

飛行機はカナダ製のデ・ハビランドDHC-3オッター。
(この写真は本には載せてありません)単発だが、14人ほどの客を乗せられる大きさの上翼機だ。故障したのか、あるいは急な噴火から逃げられなかったのか、荒れた天気で壊れて修理できなかったのか、放置されたままで半世紀近くが経ってしまっていた。

なお、この残骸の写真だけから、機種を特定してくださったのは航空写真家・淵野哲氏である。特徴的な5本の穴が見える
エギゾーストパイプ、窓の数とコックピットドアの形状、エギゾーストパイプに沿って胴体中央部まで続く整流板、垂直尾翼へ続く背びれのライン形状と胴体下部側面の穴といった特徴から、たちどころに判定してくださった。STOL(短距離離着陸)が出来る汎用輸送機で広く使われた名機である。

このDHC-3オッター(「オッター」とはカワウソ)は1951年に開発が始まったDHC-2 ビーバー(「ビーバー」とは海狸=かいり、うみだぬき)を大型化したもので、1953年に初飛行した。

飛行機の全長は12.80 m、全幅:17.69 m、全高:3.83 mで、最大離陸重量は:3,629 kg。エンジンはプラット・アンド・ホイットニー R-1340(600馬力)の空冷星型レシプロエンジン 1基で、最高速度は:285 km/h、実用上昇限界高度:5,460 m(17,900フィート)であった。

航続距離は:標準型で1,545 kmとされていたが、あるいは南極のこの種の用途には増槽タンクをつけて、もっと延ばしていたかもしれない。固定脚なので、車輪のほか、フロートやスキーを装着することによって様々な状況で使われていた。

なお、日本でも1958年に、いまはなくなってしまった日東航空が導入してフロートをつけ、「つばめ号」の水陸両用の旅客機として運航していたが1963年に兵庫県三原郡南淡町(現在の南あわじ市)にある諭鶴羽山へ墜落してしまった。乗員二人は前部のドアから脱出して救助されたが、乗客は9名全員が焼死した。たしかに操縦室にドアがあると、操縦士は逃げ出しやすい。

なお、 DHC-3オッターは、その後、双発エンジンを主翼に取りつけて、やはり上翼式のDHC-5 ツイン(twin)オッターになり、これも広く使われた。南極でも、日本の南極観測隊はじめ、各国で使われている。


デセプション島にはペンギンの大コロニーがある。

しかし、ペンギンたちは、卵や雛がアザラシなどの天敵に襲われないために、2本の足で、険しい坂をよちよち上って、高台で産卵と子育てを行っている。(この写真は本には載せてありません)

私たちが手を使わずに登るのも大変なほどの急坂である。彼らは、毎示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』207頁)


右の写真は、左の写真の一部の拡大。高台に多くのペンギンがいる。ここを含めて、デセプション島にいるペンギンの数は50万に達するという。

火山島だから、溶岩が固まった特有の皺や地層が見える。

 

 



283頁:英国海峡の怪奇な島、テーブル島

ここは一年中風が強く、波しぶきで視界が悪い


(以下は島村英紀『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』から)


海峡には小さな氷山やそのかけらがいっぱい浮いている。海峡が広くなっているところでは舵を切って避けられるが、狭いところでは避ける余裕はない。隠れた浅瀬も多いから、海峡の幅はたとえ十分でも、「ネプチュニア」としては避けられないことが多い。ゴツン、バリバリと、「ネプチュニア」が氷を砕いていく音が響きわたる。

 なるほど、これは難所である。

 船のすぐ脇をじつに不思議な形をした島が通りすぎていく。巨大な木の切り株のような島だ。周囲は海面から立ち上がるにつれて急になっていき、上部は垂直に切り立った絶壁にとり囲まれているが、山頂だけはまっ平らな島である。英語名はテーブル島。高さは一八〇メートルもある。その他、蝋燭のような島、鮫の歯のように鋭く尖った島。どれも奇岩である。

 日本にも奇岩が多い。各地にある夫婦岩や親子岩、北海道の積丹半島には蝋燭岩さえある。しかし日本の奇岩は、まわりの日本的な景色に溶け込んでいたり、せいぜい穏やかな景色にちょっとした彩りを添えているに過ぎない。しかし英国海峡の奇岩は違う。景色のなかにあるひとつひとつの岩が、通るものに牙を剥いているのである。

 狭い海峡にはペンギンがウヨウヨいた。海の水が黒く見えるほどだ。「ネプチュニア」の周りをやたらに跳ね回っている。水泳のバタフライのように両手を広げて水面上をジャンプする。陸上でヨタヨタしている無様な姿とは違って、驚くほど敏捷である。船を避けて逃げているわけでもない。なぜ船のまわりを跳ね回るのか、不思議である。遊んでくれているつもりなのかしら。


299頁:西南極の南極基地はどこにも十字架が建っている。

南極観測は、どの国でも、犠牲なしには進められなかったのである。ここはデセプション島。南極には珍しい活火山の火山島である。

アルゼンチンをはじめ、オランダやスペインが南極基地を置いていたが、デセプション島が噴火したときに撤退してしまった国が多い。

後方に見えるのは地質学者が夏を過ごすフィールドワークの小屋。水もトイレも、冷蔵庫もない(『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』)。


本に掲げたのは上の写真のデセプション島の十字架だが、下はキングジョージ島のハーフムーン南極基地(カマラ基地ともいう)を見下ろす丘にある十字架。

悪天候をついて短い夏の間の物資輸送をしていたヘリコプターが墜落して10人以上の犠牲者を生んだ慰霊碑である。

左手に見える池が茶色くなっているのは、グアノ(ペンギンの糞)で汚染されているためだ。一般に、南極の池の水は飲めない。

この基地は、あまりに居住条件が悪いために、越冬には使われていない。


キングジョージ島のアークトウスキー氷河の末端

多くの国の南極基地があるキングジョージ島も、その多くは氷河に覆われている。その氷河はゆっくりながら流れて、最後には海に落ちる。

(この写真は本には載せてありません)

(以下は島村英紀『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』からの引用)

 「ネプチュニア」はキングジョージ湾に入っていく。湾内は一段とベタ凪で、鏡のような海面を滑る「ネプチュニア」が舳先で水をかき分けていくサアーッという音だけが周囲の静寂を破っていく。

 ときどき雷か地鳴りのような低い、それでいて荘厳な音が響きわたる。でも、雷でも地鳴りでもない。これは湾のまわりで氷河が崩れて海に落ちていく音なのであった。

 氷河そのものが流れる速さは1日で1メートルも行かないほど遅い。しかしキングジョージ湾のような大きな湾では氷河の前面の幅が広いゆえ、まわりのどこかで、つぎつぎに氷河が後ろから押されて崩れ、海に落ちていく事件が3-4分ごとに起きているのである。

 崩れ落ちる氷河のブロックの大きさは「ネプチュニア」よりも大きいくらいだ。それゆえ、遠雷のような荘厳で低い音が、湾内に響きわたるのである。

 丸くえぐられた湾の形は、海岸に向かってせり出した氷河の壁とともに、劇場のように残響が大きい音響効果を持つ。「ネプチュニア」のほかは誰もいない自然の大劇場で聴く氷河の音は、私にとって忘れがたいものになった。

 しかも劇場の背景は、モンブランの頂上から見渡すヨーロッパアルプスのような岩山と氷河が織りなす世界なのだ。世界のどんな劇場も、この自然の劇場にはかなうまい。そのほか湾内にはジュバニー南極基地の裏にある三兄弟山のような玄武岩のプラグが、静かな水面からヌッと立ち上がっている。三兄弟山よりもずっと細いプラグだから、まるでマッターホルンの山頂のように見える。

 さらに湾内の浜辺に近付くと、「ネプチュニア」は氷河から崩れ落ちたばかりの氷をかき分けながら進むことになる。

 こんどは、また別の不思議な音がする。パチン、プチン、ポツンといった音が、船のまわり中で聞こえるのだ。

 海に落ちた氷河に海水が浸み込んでいって、割れて砕けるときに鳴く、その大合唱なのであった。この音は、「ネプチュニア」に来たばかりのときに船長室のパーティで振る舞われた、ウイスキーに海氷を入れたときの音と、じつは同じものなのである。

 1メートルほどのミニ氷山でも、びっくりするくらい大きな音を出す。船縁に立って耳を澄ますと、コーヒーカップくらいの超ミニ氷山でも、一人前にプチッといった音を出しているのである。

 小さいもの、大きいもの、それぞれの氷山が歌っている。ときに「雷鳴」が余韻を残して響きわたる。氷山の海が、これほど楽しい音に満ちているとは知らなかった。

 私は船縁に立ったまま、いつまでも氷河の歌に聞き惚れていた。


1991年当時には、南極観測隊員と家族とのつながりは、この無線交信だけだった。

割り当てられた時間に家族がアルゼンチン国立南極研究所を訪れる。研究所の無線通信士の手伝いで、短い間だけの声の通信が行き来する(ブエノスアイレスのアルゼンチン国立南極研究所で)。

(この写真は本には載せてありません)

(以下は島村英紀『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』からの引用)

 毎日午後、ブエノスアイレスにあるアルゼンチン国立南極研究所の廊下に、場違いな母子連れの声が響く。母と子だけではない。祖母と孫、祖父と母と子という組み合わせもある。これは、アルゼンチンの南極観測隊員の家族が、南極基地にいる隊員と無線電話で話せる唯一の機会なのである。

 南極基地の数も多いし、隊員の数も多いから、一家族あたり週に二回までしか会話は許されない。

 はしゃいだ声が無線室に響く。お父さん髪はボウボウなの? ヒゲは伸ばしているの? と声が弾む(写真)。しかし一家族に許される通話時間は僅か三分間。非情に時間が経っていく。時間が来れば、無線士は別の南極基地への通信に切り替えなければならないのである。


303頁:砕氷船『ネプチュニア』はドレーク海峡でこのくらい揺れた。

船速は人が歩くほどに落ちてしまった。ドレーク海峡を渡ったことがある船乗りは、人と話すときに机の上に足を投げ出したままでいい、と言われているほどの、世界でも有名な荒海だ。

このドレーク海峡を超えた最初の港が、世界最南端の町、ウスアイアである。


333頁:人間タロ、ジロが越冬した手作り石小屋

(以下、茶色い字の部分は、島村英紀『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』からの引用)

 南極半島のはずれにアルゼンチンが持つエスペランザ基地には、石を積んで造った粗末な小屋がある。これは20世紀初めに、はからずも「人間タロ、ジロ」を演じたスウェーデンの科学者らが生き延びた歴史的な小屋なのである。

彼らは地質学者グンナール・アンダーソンら3人だった。うち1人は船乗りである。1903年、南極の短い夏を狙って観測をするための同国の南極探検船が、帰り道に拾って帰るつもりで、無人の海岸に3人を置いて、また別の場所に観測に行った。

 しかし、その年は秋が異常に早かったのだ。急に襲ってきた寒気で目の前の海が氷に閉ざされて、迎えの船が来られなくなってしまった。それだけではなかった。その船は岩と衝突してしまい、命からがら、南極から逃げ帰ってしまったのである。

 置いていかれた3人は途方に暮れた。もちろん当時は連絡のための無線機もなく、エスペランザ基地が造られるはるか前で、南極には誰も越冬していなかった時代である。持っていたテントでは到底、冬を越せないので、海岸で石を拾い集めて積み上げ、小屋を造った。

 よくこんな小屋で越冬したものだ。小屋というよりは箱にすぎない(写真)。大きさはわずかに約3メートル四方だし、壁土の材料などはなかったから、石の壁は隙間だらけだ。出入口は、ようやく這って入れるくらいの大きさしかない。

 食糧は手持ちのものではもちろん足りなかった。彼らはここで、ペンギンやアザラシを食べながら、次の年に救出されるまで、1年余をたくましくも生き延びたのである。

 彼らが生死不明になったことは世界的な大事件になった。南極の氷が緩みはじめた翌春には、各国が救援の手をさしのべて、国際的な協力態勢が組まれて捜索が行われた。


 そして、彼らの救出に成功したのが、アルゼンチンの海軍大尉ジュリアン・イリサールが率いた帆船「ウルグアイ(Uruguay)」だったのである。スループ型砲艦といわれる帆船の軍艦であった。砕氷船「イリサール」の名は、この救出に成功したイリサール大尉を記念して付けられたのである。

 しかし救出された彼らは見上げた学者たちだった。ただ生き延びただけではない。彼らは救出されないまま息絶える恐怖と闘いながらも、後世の科学に何かを残すことを使命としていた。越冬している間もフィールドを歩き回って、貴重な化石や岩石標本を多数、収集していたのであった。幸い救出されてからも、帰国してから論文を書いて、彼らは当時の南極の地質学に大きな業績を上げたのである。

 南極が科学者の聖域としてどの国にも認められた陰には、こういった科学者の活躍や、国際的な救援活動の歴史があったのである。


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この帆船は、その後、航海実習船として使われたあと、現在はブエノスアイレスの港に係留されて、船内は博物館になっている(左の写真)。ずいぶん小さな船だ。こんなもので、よく南極まで行ったものだと思う。(この写真は本には載せてありません)

ブエノスアイレス港は内陸から大量の泥を押し流してくる大河、ラプラタ川に面している。このため、どこでも、茶色い泥水で底が見えない。


(2004年9月に撮影。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10、レンズは197mm相当、F4.0、1/250s)

エスペランザ基地(アルゼンチン)。晴れた日には、世界でいちばん美しい南極基地だろう。

【2013年7月に追記】 追加した右下の写真のように、この南極基地の右側には、大きな氷河がある。氷河が運んできたモレーンの上に作られた南極基地なのである。

(この写真は本には載せてありません)

(以下は島村英紀『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』からの引用)

 じつは南極基地で一番恐いものは火事だ。消防能力は低いし、夏でも雪が降るほどの厳しい気候の中で焼け出されたら、命の問題だ。もちろん家を建て直すための資材が現地で入手できるわけでもない。  このため、南極基地の造り方には二つの方式がある。

ひとつは、小さな単位の小屋を幾つも独立に造る方式で、南極半島の先端にアルゼンチンが持つエスペランザ基地は、このタイプの典型だ。30もの小屋があり、隊員の居住用の小屋のほか、食堂や集会場、食糧庫などがそれぞれ別棟になっている。

このように小さい小屋をいくつも作るのは、火事の時に安心だからである。  しかし、この方式には重大な欠点がある。僅か十数メートルしか離れていない別の小屋に行くことが命がけになるような気象が南極では珍しくないからである。真夏でも、激しいブリザードで、数メートル先のものがまったく見えないことがある。

 この面からは、大きなひとつの建物を造って、中ですべての生活が出来るようにするほうが安全だ。これがもう一つの方式で、南極基地にはこちらのほうが多い。マランビオ基地もそのひとつである。また2-3の大きな建物を渡り廊下でつなぐのも、この方式に近い。

 私たちがボートでエスペランザ基地に上陸したときのことであった。上陸した私に最初に握手を求めて来たのは小学生の男の子だった。

彼は南極基地隊長の息子で、つまりここには学校があるのである。小学校とはいっても、世界最小の小学校であろう。つまり隊長夫人が教諭の資格を持って息子を教えている「寺子屋」なのだ。  アルゼンチンにとって、ここは大事な南極基地だ。なぜなら南極の「領土化」の最前線だからである。1970年代にに世界最初の南極ベビーが生まれ、いまは小学校もあって、ほとんどは単身赴任の隊員だが、そのほかに3家族が暮らす。それゆえ教会も、公民館もある。ここはアルゼンチンが南極に居住して生活する実績を世界に見せつけるための立派な「村」なのである。

 基地にはまた、探検時代の橇や昔の雪上車が復元して展示してある。説明の立て札も立っている。展示。観光標識。そう、ここはアルゼンチンの南極領土の対外的なショー・ウインドーでもあるのだ。私たちのように外国基地の隊員もよく来る。そして、一般の観光客さえ、最近は来るようになった。アルゼンチンにとっては、アルゼンチンの領土たる南極を見せつける大事な機会なのだ。他の国は、もちろん領土化を認めてはいない。しかしアルゼンチンは、そしてチリも同じように、こうして「実績」を積み重ねているつもりなのである。


南極のたいへんな物知り博士、ビルケンマイヤー氏(215、267頁などに登場)。南極随一の地質学者だ。砕氷船『ネプチュニア』船上で。

(この写真は本には載せてありません)


(以下は島村英紀『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』からの引用)

 ここは、かつてビルケンマイヤー氏が南極科学委員会に申請して、特別保護区として認められた。つまり、動物の生活を乱すどんなこともやってはいけなくなっているのである。それゆえ科学者の行動や生活にも厳しい制約がある。ヘリコプターで上空を飛ぶことさえ許されないほどだ。

 訪問できる科学者の数にも制約があるから、ビルケンマイヤー氏らが動物学者に頼まれて、アザラシやペンギンの数を数えたりもしている。南極の生態系の調査は南極の自然を守るための重要な基礎データなのである。

 ペンギンには数え方がある。

 何万羽というペンギンの計数は、1羽1羽数えることは不可能だ。数えていたら、地質学者の研究が出来なくなってしまう。このためペンギンが寄り添って立っている習性を利用して、集落の全体の面積を、ペンギン一羽当たりの面積で割って、数を出しているのである。

 寄り添うといっても、満員電車の客のように身体をくっつけあって立っているわけではない。不思議なことに、ペンギンには「突っつき距離」と言うものがあって、立ったまま上半身を前後左右に折って、隣のペンギンと嘴で突っつき合う距離が決まっている。

 この突っつき合いが、挨拶なのか、それとも自分の領域を確保する仕草なのかは分かっていない。しかし、ペンギンの種類ごとに、この距離は驚くほど一定なのである。それゆえ、こうして数えた数はかなり正確なものだと言う。ペンギンにもいろいろな種類があり、身体が大きいペンギンほど、この突っつき距離が大きい。

 じつは、このペンギンの数え方はビルケンマイヤー氏から聞いた話である。氏がこの話をしてくれたときに、上半身をボクサーのような仕草で折って、ペンギンが嘴で突っつくさまを実演してくれた。髭の老学者のそのユーモラスな姿で、この話を憶えているのである。

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(以下は島村英紀『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』からの引用)

 ビルケンマイヤー氏にとって、今回のデセプション島の地質調査は3回目になる。いままで2回で同島の地質図のデータを集めてきたが、今回の調査で最終的な地質図を完成させたいという。

 いつかビルケンマイヤー氏を案内して東京の町を歩いたことがある。不思議な習慣を持っていた。角を曲がる度に立ち止まって、まわりのビルや風景を頭に刻み込む。時にはメモを取る。

 なるほど、これが南極に生きる知恵に違いない。道に迷ったら命にかかわる。南極のベテラン科学者であるビルケンマイヤー氏は、わずか1-2日のうちに、東京の入り組んだ街路を苦もなく憶えてしまったのであった。


私の南極への旅は、ここウスアイアで終わった。地球最南端の町だ。パタゴニアの中心の町でもある。

真夏なのに気温は10℃。町に迫っている山には万年雪も氷河も残っている。(この写真は本には載せてありません)

なお、私が撮ったパタゴニアやウスアイアの写真はこちらにもあります。

 


私の西南極観測記は拙著『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者』に詳しいのですが、短い文はこちらにも載せました(500KBのpdfファイルです。申し訳ありませんがミラーサーバーによってはpdfファイルを扱えないものがあります。他のミラーサーバーをお試しください)

このほか、『日本海の黙示録―「地球の新説」に挑む南極科学者の哀愁』の元になった、北海道新聞に載せた記事

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