島村英紀『 夕刊フジ』2015年2月13日(金曜)。5面。コラム その89 「南海トラフの「先祖」 明応地震の破壊力」{1100字}


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【追記】その後、ここに生まれ育った人から「向こうへ続く海岸線の途中に海に突き出した黒い線は岩田川の河口の港です。明応地震の時は岩田川はなく、安濃川が急カーブして海岸線に沿って南下し、造船所(右手の四角い埋め立て地)の直前の藤方(藤潟)で海に流入していたようです。安濃津の港町は藤方と現在の岩田川の間にあったと思われます。海岸堤防には見るべき工夫はありませんが、安濃川の水量が増加すると岩田川に流れ込むように一部の堤防をわざと低くしてある場所があります」というメールをもらいました。

【追記2】その後、以下の指摘を上記の方からもらいました。
1) 明応地震で現地は壊滅的打撃を受け、地元の寺社も残らず、古文書がなくなってしまった。津観音は709年に創建されていたが、いまのものは津波後に現在地に移転して再建されたものだ

2) 地震当時この地は伊勢神宮、または京都の公家の支配下にあったはずだが、伊勢もこの地震の津波で大被害をこうむり、一方、京都は応仁の乱以降乱れて、記録を残す公家もいなかった。それゆえ日記などの記録もない。
3) 1560年頃に長野氏が粗末な城を建てたが、半世紀前の災害記録対策まで手を回すほど余裕がある勢力ではなかった。その後、三代も家が変わり、徳川になり藤堂家が32万石を与えられて城下町として再出発した。しかしそのころには大災害の記憶も薄れ、安濃川、岩田川の整備しかやらなかった(外濠の役割)。
4) その後「南海トラフ」の先祖の地震(たとえば1707年の宝永地震や1854年の安政東海地震)もあったが、ここでは大きい被害がなく、今日まで来てしまい、地元では、いまになって慌てている。

なお、この方は「私が首まで水に浸かって逃げた1953(昭和28)年の台風13号の高潮の時、崩れた土の海岸堤防は恐らく藤堂藩の時代のものと思います。藤堂藩は32万石を得ながら、本格的な津波対策はやらなかったようで、袋井の本多藩が造った「命山」のような政策か、もう少し高い場所に城下町を建設すれば良かったと思います」と言っておられます。

【追記3】その後、以下の指摘を上記の方からさらに
もらいました。

津も「命山」を建設中だそうです。場所は新聞の写真の下方に拡がっている香良洲です。ここは海抜が低くかつ3つの橋のどれかを渡らないと高い場所に逃げられない場所なので、津波のときに逃げる「命山」を作ることにしたようです。ただ「命山」とは言わず、「香良洲高台防災公園」と名付けるそうで、完成は2021年となっています。




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