留萌市民文化誌『波灯』(第23号、2010年6月発行。連載その11)
12-44頁。{400字約100枚}、なお、ここには雑誌には長すぎて省いた分も掲載してある。

地震学者が大地震に遭ったとき---関東大震災から二ヶ月間の今村明恒の日記・注釈付きの現代語訳

 1:■解説:島村英紀

 今村明恒(東京帝大の助教授。一八七〇〜一九四八)は当時としては珍しく、地震予知に情熱を燃やした地震学者だった。

 今村は関東地震(一九二三(大正一二)年九月一日)や東南海地震(一九四四(昭和一九)年)がいずれ襲って来ることを予想して為政者や人々に防災の準備を説いた。また地震予知の基礎になる観測網を展開することにも熱心だった。そのために私財も投げうった。

 しかし、やがて大地震が来て東京は大火災に見舞われるという彼の警告は、彼の本意をよそに新聞のセンセーショナルな扱いのせいで世間を騒然とさせた。同時に「世を騒がせる浮説だ」という批判も巻き起こった。

 なかでも彼の上司であった教授大森房吉は批判の急先鋒であった。大森は日本を代表する地震学者として、確たる証拠がない以上は無用な混乱を避けるべきだという世間に対する責任感に突き動かされていたのだった。

 大森が火消しに努めたせいで恐慌は静まった。しかし今村はこのように書き残した。「市井の間には私利を謀るために浮説を唱えたとされ、友人からは大法螺と嘲けられた」「翌年の夏に帰省したとき、自分に対する非難の数々を転載した地方新聞を読んだ老父がいちいち弁解を求めたのには弱った。一年余も老父を心痛せしめたかと思って情けなくもなってきた」。苦境に陥ったのだ。

 今村と大森はことごとに衝突し、確執は深まった。「今村が予言していた関東地震は起きない」と公言していた大森は、実際に関東地震が起きて大被害を生んだときは、たまたま学会でオーストラリアに行っていた。地震の報を受けて急遽帰国中に倒れ「今度の震災については自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方がない」という言葉を残して、ほどなく亡くなった。

 日本史上最大の被害を生んだ関東地震はマグニチュード七・九。相模湾から神奈川県南部、そして房総半島までの広い範囲の地下を震源とした巨大地震だった。いわば海溝型の巨大地震が首都圏直下を襲ったのである。

 「関東地震」が史上最大の「関東大震災」になったのは地震後に燃え広がった大火災のせいだった。一〇万人を超える犠牲者の大半は焼死者であった。なかでも被服廠跡(今の墨田区横網)では周囲から避難してきた三万八千人もが火災旋風で焼死する惨事が起きた。

 当時五三歳だった今村は地震後、八歳年下の寺田寅彦(東京帝大の物理学の教授)ら同僚や教室員とともに地震後一日の休みもなく精力的に動き回り、各地の被害調査や防災への提言を行った。復興の中心になった後藤新平のほか、政府や天皇や皇族にも説明を続けた。

 また彼は(少なくとも記録が公刊されている一〇月三一日まで)毎日、長文の日記をつけていた。その総量は優に新書版一冊分を超える。そのうえ報告書、提案書、震災予防調査会の説明と宣伝も同時期に書いていた。

 大変な「書き魔」であった。ここではその一部、地震当日から十月までの日記を現代の地震学から意訳・現代語訳した。なお、頁数の制約から日記の一部を省いてある。

 ところで、この日記には今村が関東地震の前兆を見つけられなくて悔しがる様子が書かれている。

 今村が挑んだ地震予知は、現代でも不可能な難題である。一九七〇年代になってからも、私が尊敬する地震学者である宇津徳治さん(気象庁から北海道大学理学部、名古屋大学理学部、東京大学地震研究所へと転任。故人)が、地震予知を卒論にしたい、と申し出た学生の相談を受けたときに「そのようなテーマは、功遂げ名を上げた大家が道楽でやるものだ」と一蹴したという。日本の地震予知計画が始まっていた七〇年代でさえも、”良識ある”地震学者はそのように考えていたのである。この学生はその後、大手出版社の理科系の編集者になった。

 なお地震予知の研究をとりまく現状について興味がある方は島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』(講談社文庫、2008年)をお読みいただければ幸いである。



 2:■今村明恒の日記・本文

一九二三年九月一日(土曜)

 その日の朝、文京区本郷にある東京帝大の地震学教室に出勤していた(註:土曜は通常出勤日であった)

 八月下旬に私が訪問した北海道の樽前山の噴火(註:支笏湖の南にある活火山、樽前山は一九二三年二〜七月に小噴火して札幌、苫小牧、十勝で降灰という記録が気象庁に残っているが、八月の噴火は記録されていない。ごく小さな噴火だったのであろう。このことは火山学者・宇井忠英さんから教えていただいた)の写真を並べて見ながら、よく撮れている、と皆で感心していた、

 ちょうどそのとき、正午から一分一六秒前のことだった。あの大地震が襲ってきたのだ。

 しかし最初は、それほど大きな地震だとは思わなかった。

 いつも地震のときにはそうするように、座ったまま初期微動の継続時間(註:最初に到着するP波から、のちに到着するS波までの時間差。これによって震源までの距離が分かる。雷が光ってから音がするまでの時間差と同じである)を数えた。

(註:東京帝大の実験物理学者は伝統的に、一秒を四拍で数えて正確な秒数を時計なしに計れる修練を積んでいる。私も学生時代に捕鯨用の平田銛を発明した平田森三教授にこの方法を習った)。

 主要動が来るまで一二秒であった。(註:震源までの距離は初期微動の継続時間に八を掛けると得られる。この場合は約一〇〇キロになる。)

 その初期微動の途中から振幅が見る見る大きくなって、いや、これはずいぶん大きな地震だぞ、とは感じた。だが、それでもまだあんな大地震とは、まだ思っていなかった。そのうちに主要動が来て、屋根の瓦が動き出し、次々に落ち始めた。しかも地震の揺れは私の予想を次々に裏切って、建物の揺れはさらに激しくなっていった(註:地震学教室は木造で瓦葺きであった)

 そして初動から一五〜一六秒後、つまり主要動になってから三〜四秒経って地震の揺れは最大になった。揺れの方向は、北西と南東方向を往復するものであった。

 建物はあちこちできしみ、屋根の瓦が飛び散って、耳を聾するばかりの騒音があたりに満ちていた。

 地震学教室にいた者たちのうち一人か二人は建物の外に飛び出したようだが、多くは私と同じように室内にとどまっていた。なかには、素早く、やや離れたところにある地震計室に飛んでいった者もあった。(註:地震計は人の動きによる雑音を避けるために、建物から離れた独立した小屋に設置してあった)

 いままで東京で感じたことがある大きな地震ならば地震の揺れが急に小さくなって収まる頃をすぎても、今度の地震だけはそうではなかった。揺れが最大を記録した後も、ゆらゆらとゆっくりした揺れが一向に収まらずに、ただ揺れの周期だけが延びたような感じであった。なんだか大船に揺られているような気持ちだった。

 そして、そのゆっくりした大揺れが収まらないうちに、早くも大きな余震が起きて、大きくて早い揺れが襲ってきて肝を冷やした。
 やがて揺れも、ようやく次第に小さくなった。私は教室員たちに地震計の点検を命じた。私がまずやったことは、地震計が記録したばかりの記録紙を記録ドラムから取り外して持ってこさせ、その記録を読みとって解析を始めることだった。

●私はかつて、日本の「外側大地震群」(註:日本の太平洋岸沖の海溝沿いに並ぶ巨大地震群を当時はこのように名付けていた)中、相模湾の部分が、大地震を起こす可能性がありながら過去の歴史に大地震の記録がないので将来大地震が起きる場所として想定していた。

 じつはこの想定は、私が世間に発表して(註:一九〇五年の雑誌『太陽』への発表と、その記事の新聞のセンセーショナルな後追い)以来、二〇年近くの長年にわたって、私に茨の道を歩かせたものだった。亡くなった故郷の鹿児島の父にも「ありもしない大地震の予測で世の中を騒がせた」という報道や非難ゆえに、多大の心配をかけた想定でもあった。

 教室員が持ってきた地震計の記録紙を見た瞬間、これは私が想定していた場所で起きた地震だと直感した。揺れかたは東京直下型の地震でもなく東京湾に起きた地震でもない。地震の揺れはじめ(初動)の方向と主要動までの到着時間差が、明瞭にそれを裏付けていた。

●大地震から三〇分ほど経っていた。早くも二〇人ほどの新聞記者たちが駆けつけて来た。うち二人は外国人記者だった。彼らは私の説明を聞きに来たのである。

 私は次のように発表した。「この本郷での発震時(註:地震計が記録した日時)は午前一一時五八分四四秒で、震源は東京の南方二六里(註:約一〇〇キロ)、つまり伊豆大島付近の海底と推測される。ここ本郷では振幅が四寸(註:約一二センチ)にも達する大きな振動だったから、東京では安政地震(註:一八五五年。江戸に死者一万人以上という大被害をもたらした直下型地震)以来の大地震になる。もし震源が海底であるという推定が間違っていなければ一時間以内に津波が襲ってくるかも知れない。その場合津波は相模湾、とくに小田原方面では大きいだろう。しかし東京湾では津波の振幅は小さくて無事だろう。今後多少の余震活動は続くだろうが、あれほどの大地震が繰り返すことはない」

 そして、さらに食い下がる外国人記者の質問に対して、この地震は火山性の地震ではなく構造性の地震だということも付け加えておいた。

 記者たちに、この発表をしている最中の午後〇時四〇分には、余震の中でも最大級の地震が起きた。記者の中には驚いて屋外へ駆けだした者もいた。しかし私が室内から笑って見ていたので、きまり悪そうに「もう大丈夫でしょうか」と恐る恐る聞きながら帰ってきた。

 このときに感心したことは、外国人記者は私の姓名をカタカナ書きで正確に、そして姓のローマ字綴りまで聞かれたことだった。一方、日本人の新聞記者たちは私の名前さえ確かめなかった。私の名前を、そのときはオーストラリア出張で不在だった大森房吉博士と間違って報道した社も一つ二つではなかった。大森先生にもご迷惑なことであろうと苦笑せざるを得なかった。

●こうして記録紙を点検し記者発表も終えたので、はじめて教室の建物の玄関から出てみると屋根の瓦が何枚も落ちかかっていた。これら危ない瓦を突き落として玄関の出入りを安全にしておいてから、大学の内外の様子を見ようと、大学の前を通っている本郷通に向かった。

 まず帝大の正門に向かうと、法文学部新館の煉瓦建築の蛇腹(註:壁を囲んで水平に取り付けた装飾的突出部分)が崩壊しているのに驚き、さらに進むと今度は工学部の応用化学教室が燃えていたので、さらに驚いた。

 正門から本郷通に出ると、通りの大学側は、反対側に広がる民家から飛び出してきた人々で埋まっていた。通りの向こう側の商店の屋根瓦はほとんど形をなしていなかったり崩落したりしていたし、土壁の多くも崩れ落ちていた。それだけではない。遠く南のお茶の水方向には火の手が上がっていた。

●ここにいたって私はようやく、これは容易ならざる事態が起きたということを実感した。折悪しく風も強まってきていた。かつて私が警鐘を鳴らしていた地震後の大火災が現実にならなければいいがと心配しながら、急いで教室に戻った。

 教室で、机の上に拡げていた北海道の樽前火山の噴火の写真などを片づけていたところ、今度は教室から風上に当たる大学の中央図書館あたりから煙が吹き出した。医化学教室から出火した火が図書館に燃え移ろうとしているという情報が入った。

 私はしかし、まだ油断していた。図書館から地震学教室までの間には法文系の旧館や新館や八角の大講堂があるが、いずれも煉瓦建築で耐火性があるから類焼はせずに自然に鎮火するに違いないと楽観していたのだ。

●だが事態は刻一刻悪化して私の予想を裏切っていって火の手が教室にも迫ってきたのであった。

 このため教室の金工場や木工場の職工や小使いたちを私が指揮して屋根に登らせ、飛んでくる火の粉を防がせた。また中では教室員を指揮して、もっとも重要で焼けたら困る地震計の記録紙など、貴重な資料を外へ運び出させた。

 私も大わらわになって飛び回った。しかし図書館で煙が見えてから約一時間後には、火は早くも地震学教室の隣の数学教室にまで燃え広がってきていた。

 教室も風前の灯火である。しかも大地震のために屋根瓦が落ちてしまって瓦を支える木材が露出してしまっている。もっとも延焼しやすいものが火の粉に曝されているのである。

 教室の屋根も三回にわたって燃え上がった。しかも水道は地震で地下の配管が壊れてしまったのか、一滴の水も出ない。

 しかし職工たちは勇敢だった。あっちだ、こんどはそちらだ、という下からの指示に従って屋根の上を平地の上のように飛び回って、燃え上がった火を踏みつけて消したり、箒で掃き落としたり、また、燃え上がってしまった部材は剥がして屋根から落としたりして、水のない消火に努めてくれた。

 こうして二〇分ほどの奮闘のあと、幸い風向きが東に変わってくれた。数学教室からの火の粉は、教室ではなくて西のほうに飛ぶようになったのである。こうして地震学教室は窮地を脱することができた。

 じつは教室の火消しに必死になっている間、やや離れたところにある地震計の観測室が危ないという情報も来ていた。しかし教室の火の手を防ぐだけで精一杯で、どうすることもできなかった。地震計室には地震計はあるが、過去に取った記録は教室に保管してあったからすでに運び出していた。失うとしても地震計だけである。

 教室の火が一段落したので、教室員に見に行かせると、幸い、化学教室の人たちが類焼を防いでくれたことが分かった。不幸中の幸いであった。

 だが、その後風は一層強くなった。(註:これは大火災による火災旋風が強まったのである)。しかし風向きが北になったので、理学部の本館も類焼の恐れがなくなった。すでに午後六時になっていた。

 私の自宅が気にならないわけではなかった。午後四時頃、長男が自転車を飛ばして駆けつけて来て、家族の無事を知らせてくれた。これで初めて安心したものの、家そのものはいまにも潰れそうなくらい傾いてしまったという。私が帰宅するまで、家族は家に入らず、外に居なさい、と伝えた。余震で倒壊したら命の問題だからである。

●教室はこうしてひとまずの危機は脱したので、大学のまわりはどうなっているだろう、と周囲を見渡せる新築中の工学部の屋上に行ってみた。

 そこからは凄惨な光景が広がっていた。東にある上野の山を越えた彼方から、南にある麹町、さらに西にある新宿方面まで、真っ赤な火の手と煙が入道雲のようにわきあがっていた。(この入道雲が、火災によって生まれた火災旋風が作った積雲であったことは、あとで寺田寅彦博士に聞いた)。(註:寺田は、この地震が起きたときには上野の美術館で二科会展を見ていた。また、自宅に被害はなく、家族も無事だったという。教授会など、大学の教師の義務をさぼるので学内では評判が悪かった寺田だが、この日もさぼっていたのであろうか)

 立ち上っている真っ赤な煙は、見えているだけで二〇数条にもなっていた。中には二重三重になっていて奥にあるものは見えていないものもあるだろうから、もっと多いに違いない。

●折悪しく、風も強まってきていた。ああ、これでは、かねて私が警告していた東京の大震災が現実になってしまうのではないだろうか。私の警告は「学術的な根拠のない浮説」とか「治安を妨害する憶説」とかいって非難され嘲られていたが、それが現実に起きてしまう、なんという不幸なことであろう。

 うなだれて教室に帰ってくると、今度は地震計の観測室がまた危ないという知らせが来た。よし来た、とばかりに、屋根の上で大活躍してくれた職工たちと、消火用の梯子を担いで駆けつけた。

 もし観測室が燃えてしまうと、火は隣の化学教室、さらにはその隣の大学病院にも延焼する。大火災になってしまうのである。このため、防火の応援の人手が、今度はたくさん出てくれていた。化学教室の人たちはもちろん、近藤病院長や入澤学長まで駆けつけてきていた。屋根では医科の助手が先ほどの地震学教室の職工たちの働きを圧倒するように活躍していた。また病院から出てきた二〇〇人ほどの看護婦たちも人海作戦で(註:大学の構内にあって近くの)三四郎池の水を汲んでくる。

 消火作業のなかでも、この水が効いた。午後九時には、この火も消し止められたのであった。

●こうして、ようやく一段落してみると、改めて腹が減っているのに気がついた。考えてみれば朝飯以後はなにも食べていなかったのである。

 友人である大谷文学士が、とりあえずの食べ物を調達してきてくれた。午後一〇時になっていた。

 燃えてはいけない、と教室から運び出していた地震計の記録紙や貴重品も、ふたたび教室に運び込んだ。

 時間も遅いので遠くに住む教室員をまず帰宅させ、家の心配がない独身教室員などで徹夜の地震観測をしてもらうことにして、私は午後一一時頃に大学の門を出た。

 しかし本郷南方に火の手が広がっていたから、いつもの通り道ではなくはるかに迂回せざるを得なかった。

 東大久保(註:本郷から直線距離で約六キロメートル)の自宅にたどり着いたのは翌日、午前一時になっていた。(註:当時の人々は、この程度の距離は普通に歩いて通っていた。この日記にも「電車が止まったので歩くしかなかった」といった記述はない)。
 家を見てみると、幸い余震で崩壊するほどの被害ではなかった。(註:午後四時頃、長男が知らせてくれたときは家がいまにも潰れそうなくらい傾いてしまったとあったが、今村が見たら骨組みなどは無事だった)

(註:地震学者が帰ってきたというので)心配顔で集まってきた近所の人たちに、もはや大地震が来ることはないので安心するように、と告げ、家族にも、家の中で寝なさい、と屋内で寝かせることにした。


一九二三年九月二日(日曜)

 リュックサックを背負い、凛々しく登山服を着て、早朝から地震学教室に出勤した。

 教室員の保田助手が住んでいる(註:千代田区)一ツ橋の官舎は焼けてしまい、近くの一ツ橋地震観測室も燃えてしまったという。一ツ橋地震観測室は古くから地震観測を続けてきた歴史的な観測所であった。そのほか教室の職工二人の家が燃えて焼け出されたという。

 ほかの助手たちも自宅が地震で壊れたり内部が無茶苦茶になってしまっていたので、家族ともども後始末に大わらわで欠勤してしまった。

 このためただ一人忠実に出勤してくれた神永助手と二人で地震観測を続け、地震計で取った記録の整理をした。まだ頻繁に余震が続いているので、地震計の描針が、強い余震のたびに折れてしまう(註:煤書きの記録ドラムに細い描針で引っ掻きながら記録していく。右の写真は当時の三成分地震計。なお、上の写真は研究室の今村明恒。『科学知識・震災号』、科学知識普及会、1923年から)。このため神永助手は、根気よく何度も描針を取り替えている。

 この地震計は一倍半地震計と呼ばれる、強い地震を記録するための低い倍率の地震計である。それでも描針が折れてしまうほどの余震が繰り返していた。

 一方、地震学教室の敷地には、まわりの町から逃げ込んできた避難の人々が次々に増えてきて異様なありさまになっていた。

 遠くを見ると、上野広小路の松坂屋百貨店が火に包まれていた(左下の写真は完全に燃え尽きてしまった松坂屋。入り口の扉だけが残っている。内務省社会局、『大正震災志写真帖』、1926年から)。もしこの火が西側にある博品館に燃え移ったら、上野の不忍池のまわりに避難してきている十万人もの人たちの命が危ない。また、これらからの飛び火が下谷茅町に達すると次は大学までも危なくなってしまう。事態は刻々と悪い方向に向かっていた。

 見ているうちに松坂屋は燃え尽きてしまった。

 夜になって、焼け出された二、三の教室員が焼け残った荷物をまとめて、それぞれの家族とともに、地震学教室の敷地内にある附属の建物に避難してきた。

 私は彼らに夜を徹して地震観測にあたること、周囲の警戒にあたることを依頼して、家への帰途についた。

(註:以下の文章は、日記が最初に出版されたとき(『科学知識・震災号』1923年)にはなかった。ごく簡単に触れられていただけだったのを、同誌の読者の質問に答えて詳しくしたものである。)

 その途中、自宅まであと数百メートルのところで、夜警の青年団に酷い目に遭った。団員が「どこへ行くのか」と訊くので、「東大久保四八番地へ行きます」と答えて通り過ぎようとしたとき、いきなり後ろから襟を捕まれて、待て、と大声を出しながら五、六歩、引きずり戻されてしまった。帽子はむしり取られ提灯を顔に突きつけられて五、六人の団員が代わる代わる顔を覗き込む。

 うしろから「やっつけろ」という声が聞こえた。ここで暴行を受けたりしたらたまらないから「地震学専攻の今村はかせです」と名乗った。「はくし」ではなく「はかせ」と言ったのは私のとっさの機転である。

 この名乗りが効果があったらしく、ようやく虎口を脱することができたのだった。答え方によっては命がなかったかも知れない。

●【註】関東地震の悲劇の原因のひとつはデマであった。人々は口伝えのデマにおびえ、パニックに陥った。デマのなかには、富士山が噴火したとか、またいつの地震のときにもあるデマだが、もっと大きい地震が来るといったものがあった。

 しかし関東地震のときにはもっと悪質なデマも流された。しかも警察官などを使って、かなり意識的に流された形跡がある。朝鮮人や社会主義者が暴動を起こそうとしている、とか井戸に毒を入れてまわっている、といったデマが流され、このため朝鮮人や中国人や社会主義者大杉栄夫妻など、多くの無実の人たちが殺された。

 パニックに怯えて殺気だった自警団や青年団など一般の人々が手を下した。だがもっと重大だったのは、殺された人の多くは警察や軍隊の中で、一般の人が知らないまま殺されてしまったことだった。デマを利用した権力の犯罪でもあった


一九二三年九月三日(月曜)

 昨日から、焼け出された教室員が地震学教室の敷地内の建物に仮住まいするようになったので昨日よりは出勤する教室員が増え、地震で壊れてしまった観測機器の修理を始めた。それまでは壊れた機械の修理までは手が回らなかったのである。

 地震学教室にあった地震計は倍率一倍の強震計、倍率二倍の地震計(註:水平動と上下動)、倍率一倍半の水平動地震計、倍率五倍の高感度地震計であった。

 あの大地震が起きたときには、強い震動のためにすべての地震計が壊れて記録を停止してしまった。その直後に教室員が献身的に努力してくれて、直ちに五、六の地震計を修理して記録が取れるようになった。

 しかし地震の約三時間後には火事が迫ってきて、地震学教室の屋根も三度も燃えはじめて消火活動をしたり、離れたところにある地震計室にも火の粉が飛んでくるなど大わらわの時間が続いたので、落ち着いて地震計の修理や整備をする時間がなかった。また大地震以後に観測した記録紙を解析して研究を進める余裕もなかった。

 しかし今日になってようやく、記録を解析することができるようになった。

 その解析の結果、初動の方向は「北方向の上下動」、「初期微動継続時間は一三・九秒」であることが確認され、また強い余震の多くもこの本震と同じ傾向を示しているので、震源の位置の推定は地震直後に発表したものと変わりはないことが確認された。

 ただ最大振幅は前に発表した四寸ではなく、六寸(註:約一八センチ)にも達していた。しかし、この振幅のときの地震波の周期は約二秒とかそれ以上で、比較的ゆっくりした揺れで最大振幅を記録したことになる。

 このため「最大振幅」は江戸に大被害をもたらした安政地震(註:一八五五年の安政江戸地震)よりも大きかったものの、建物に被害をもたらす「加速度」は安政の地震よりもやや小さかったことが分かった。

●この大地震の余震には二つの種類があるのに多くの人が気がついている。ひとつは揺れがゆっくりしていて震動が長く続くもの、もうひとつは震動が早くて短く、そのうち多くは地鳴りを伴うものである。

 このうち前者はあの大地震の同類、つまり本来の余震だが、後者は「利根川東京湾地震帯」(註:現在ではこのような地震帯は考えられておらず、直下型地震として括られているグループである)で起きる直下型地震である。つまりこれらは今回の大地震で誘発された直下型地震なのである。

 余震については、また大地震が来る、と多くの人が恐れていて誤解もあるようだから、それらをあまり心配しなくていい理由を書いておこう。

 余震はこの数日間に経験されているように、その数も地震の大きさも、しだいに衰退していくものである。学術的にいえば余震の数が双曲線的に減少していくことは大地震一般の法則である。また今回の余震のうちの最大のものでも、その強さは本震の三分の一程度にしか達していないから、それほど恐れる必要もない。

 また、この大地震が別の大地震を引き起こす可能性も恐れることはない。

 「利根川東京湾地震帯」は慶安二年(註:一六四九年)の川崎沖大地震(註:一六四九年。埼玉県中部の川越で被害が大きかったので、近年では震源が川崎沖であったかどうか疑われている。江戸城も破損した)、文化九年(註:一八一二年)神奈川保土ヶ谷大地震、安政二年江戸大地震(註:一八五五年の安政江戸地震)、明治二七年東京での強震(註:明治東京地震と言われる地震)によって地震のエネルギーは消耗してしまっていて、近く再び大地震を起こす余力はないことは、一般に認められている。(註:現代の地震学ではこの考えは間違っており、直下型地震はいつ起きても不思議ではない)。

 一方、今回の大地震は「太平洋岸沖で海岸線にほぼ並行する大地震帯」に属する地震である。そしてその北東の延長部分では、すでに元禄一六年十一月二三日に安房上総の東南海底に起きた大地震(註:現在では「一七〇三年の元禄関東地震」と言われているマグニチュード八クラスの大地震)が起きており、他方西方の延長部分でも安政元年十一月四日伊豆下田に大地震と津波を起こした駿河沖の大地震(註:翌年の安政江戸地震とは別のもので、一八五四年の安政東海地震のこと。恐れられている東海地震の”先祖”であるプレート境界型のマグニチュード八クラスの地震)が起きている。今回のはこれら二つの地震の中間にあった空隙を埋めた地震である。

●そして、この「大地震帯」のさらに北東部分では本年六月二日の常陸沖地震、他方さらに西の部分では安政元年十一月五日の紀伊沖大地震(註:安政南海地震のこと。安政東海地震の三二時間後に起きた)などがあって地震のエネルギーもほとんど消耗しきっている。(註:現代の地震学でもこれは正しかった。しかし二一世紀になって、すでにエネルギーはかなり溜まってきている)

 万が一、今回の地震以外の場所で地震のエネルギーがまだ残っていたとしても、それらは東京から離れているために東京での被害はまず考えなれない。これは六月二日の常陸沖地震で経験したとおりである。

 これらの考察から、今後はこの大地震のような地震は起きない、と結論づけていいだろう。このことはすでに地震当日の記者発表で述べておいたが、私はその所信をそのまま実行している。家族は一日から自宅内で寝させ、一日たりとも屋外で寝させたことはない。

●この頃、京大の小川博士は(註:大地震は続発するという博士の言説と、その否定:中略)

●次に余震について見てみよう。余震が起きた回数を本震後一二時間ごとに数えてみると、最初の半日は一一四回以上(註:ここで「以上」と言っているのは大地震後の約一〇分間、地震計が壊れて記録を取れなかったために欠測した)、次の半日が八八回、その後六〇回、四七回、と次第に衰退していくありさまが明らかである。

 じつはこの統計はそれぞれの地震帯ごとに区別して数えるべきだろうが、これは後で精査することにして今日はここまでの慨報にとどめておく。

 今回の大地震の震源位置の推定に誤りがなかったら、地震による被害は相模や武蔵で激甚だったはずである。また房総半島の南部や伊豆半島の東部でも地盤が弱い市街地で被害が大きいはずで、全体の被害の広がりは直下型地震であった安政江戸地震よりもはるかに大きいのではないかと恐れる。

●ところで東京での地震の揺れは、安政江戸地震と伯仲したものだったと思われるが、今回のほうがやや軽かったと考えられる。しかし建物の建築様式や、発火の原因の多さ、そして消防設備の違いなどの要素によって、被害の様相と大きさは全く異なった。

 たとえ地震の揺れそのものがあまり差がなかったとしても火災が東京市の大部分にまで燃え広がってしまったこと、ことに重要な商工業の地域で惨憺たる被害を生んでしまったことは、かえすがえすも残念なことである。

 いままで東京を襲った大地震としては慶安二年(註:一六四九年)、元禄一六年(註:一七〇三年)、安政二年(註:一八五五年)の三大地震がある。

 このうち元禄地震では、江戸だけで千人ほどの死者を出したほか、全体で五二三三名の命が奪われた。(註:この死者数はあてにならない。現在では房総から伊豆まで津波死者数千人と考えられている。とくに小田原の被害は壊滅的で、地震と火災で死者は二千人を超えた。)

 一方安政江戸地震では地震が起きたのが午後一〇時頃だったために六〇以上の家から出火し、それが燃え広がって合計一四町四方の広さが燃え尽きて、死者六七五七人を数えるに至った。(註:この死者数は何に依ったのかあまりに詳しすぎる、近年では七千〜一万人と推定されているが、町の住民については町役人の公式報告以外の数字は不確実だし、各藩にとって極秘事項だった武士の正確な死傷者数もわかっていない。そもそも武家人口そのものも秘密であった。また被差別部落、諸国からの出稼ぎ、流入窮民の被害も明らかになっていない。)

 これら三つの大地震は平均百三年の間隔で起きているから、安政地震以後六八年経過している今日、この大地震が起きてしまったことは、それほど不思議なことではなかった。

●私がかねてから警告してきているように、大地震のときには地下に埋めてある水道管が破損してしまうので、水道は役に立たない。そのうえ、水道が普及するとともに、東京にあった井戸のほとんどは埋められてしまった。これらのために、大地震のときの火災が一層猛威をふるうのは分かっていたはずのことだ。

 私は明治三八年に一般向けの雑誌『太陽』と私が書いた本『地震学』でこのことを指摘していた。「市民としては今後五〇年くらいのうちには、こんな大地震が再び襲来することを覚悟しなければ」「そのときに消防に使える水道は全く用をなさないから、火は全都に燃え広がる恐れがあり」「こうなると死者一〇万あるいは二〇万ということもあり得る」と書いた。

 ところが当時、この私の論説を「今村博士が首都地震の惨状を予言」と新聞がセンセーショナルに報じたため、市民の不安をかき立てる騒ぎになってしまった。私の上司である大森房吉先生(註:今村は助教授であり、大森は教授であった)は市民に安心を与えるために「今村の説は学術的な根拠が全くない浮説」だと非難された。

 しかし、実際にこの大地震の被害を見ると、たとえ学術的ではないと非難されたにもかかわらず東京中に燃え広がった火災など、結果は偶然のように一致してしまった。私はかつての私の警告が当たったことを悲しむとともに、感無量に堪えない。

●今日の日記でいままで書いてきた今回の大地震の概要や、余震についての説明と見通し、東京の過去の大地震と私のかつての警告などについて、私は謄写版で五〇部ばかりを刷った。一般に知らせるべき事柄だったからである。

 しかし、平常時ならばこれらを配ることは雑作もないことだったが、電話は東京全域で壊滅状態、電車も全滅、新聞社もわずか二、三社を除いては全焼といったありさまだった。それゆえこの印刷物を一般に発表することはじつに難しいことになっていた。

 このため、登山服を今日も着ていたことを幸い、私はまず大学のすぐ南にある本郷警察署を訪れ、そこから巡査に案内してもらって、徒歩で(註:直線距離で五キロほど離れた)警視庁に向かうことにした。警視庁も炎上してしまって丸の内の近くの第一中学の構内に仮住まいしているということだった。(右の写真は大日本雄弁会講談社、『噫!悲絶凄絶空前の大惨事!! 大正大震災大火災』、1923年から)

 こうして巡査の案内で街灯もなく電気も通じていない暗黒の焼け跡を歩いて(註:直線距離で二キロほど離れた)お茶の水駅に近づいてみると、お堀を渡る橋が燃えつつあるところだった。これでは渡れない。

 このため左手先にある万世橋へまわってお堀を超え、次に神田橋にかかると、この橋も燃えて焼け落ちてしまっていた。そこでさらに鎌倉河岸へまわり新常磐橋を渡って、ようやく丸の内と皇居前を通って警視庁の避難先に着いたのは、すでに午後八時になっていた。

 そして、警視総監に会って情報を聞き、私の印刷物を各官庁と各新聞社に配布することを委託した。

●その後さらに、被災して内務大臣官舎に避難していた内務省に警保局長と一緒に行って近県からの情報を写し取らせてもらい、また今後の連絡も約束してもらった。

 こうして帰途についたのは午後一〇時になっていた。昨晩の自警の青年団に懲りたので、自動車で早稲田警察まで送ってもらい、そこから巡査部長に同行してもらってようやく家に帰り着いた。

 しかしその後、部長が、夜警に暴行されて頭を割られた青年が保護を求めてきたというので、余丁町学校に設置された救護所まで私も一緒に行くことになった。夜警は今晩も殺気だって活動していたのである。


一九二三年九月四日(火曜)

 今日も早朝から地震学教室に行った。いままで大地震とその処理に追われていたが、考えてみると、私はたんに学究の身ではないことに気がついた。

 つまり上司の大森房吉先生が外国出張で不在だから、先生が務めておられる公的な委員会である震災予防調査会の会長と幹事、また地震学教室主任という要職の代理を私が務めることになっていたからである。(註:当時は地震予知連絡会も東京大学地震研究所もまだなかった。震災予防調査会が唯一の地震関係の組織だった)。

 震災予防調査会は今回の大地震について徹底的な学術的な調査や研究をするべき唯一の組織であった。しかし文部省にあった調査会の事務所も焼けてしまっていた。調査会の事務職員もどこにいるか分からない。まず彼らを捜し出さなければならない。

 このほかこの日には私の長男を自転車で走らせ、東京市内のありさまを視察することを依頼し、昨日の印刷物を持って親戚や知人を慰問させた。


一九二三年九月五日(水曜)

 幸い、震災予防調査会の書記、島谷氏を探し出すことができた。こうして震災予防調査会の仮事務所を地震学教室に置くことにした。震災調査の連絡の中心をようやく作ることができた。そしてこの次第を各委員に通知することにした。

 委員の一人、中村清二博士が伊豆大島から帰京した足で事務所を訪れてくださって貴重な調査資料をいただいた。(註:中村清二は今村の同僚の物理の教授。一八六九〜一九六〇、旅行が趣味で特に大島を好んだ)


一九二三年九月六日(木曜)

 この日は官庁回りをした。朝のうちに海軍省、鉄道省、内務省を訪れて震災調査の打ち合わせをして、午後は内閣幹長に呼ばれて首相官邸に赴いて、今回の地震について学術上の所見を首相に述べた。

 そのほか陸軍省では航空課が持っている上空から被害を調べた飛行偵察情報などの調査材料を貰い、測量部では三浦半島の三崎・油壺での検潮記録(註:海面の上がり下がりの記録。地殻変動の記録でもある)を取り寄せてもらうように依頼した。また房総半島、三浦半島、伊豆半島の水準測量を至急に実施してくれるように依頼した。これらは地震による地殻変動を知るために大事なデータになる。(註:今村は無給で帝大地震学教室に勤めていた一八九六年から、陸軍教授として陸地測量部で数学を教えて生計を立てていた。このため「顔が利いた」こともあろう)

 また海軍水路部(註:いまの海上保安庁水路部)でも、これら三地域の沿岸での水準測量を依頼し、快諾を得ることができた。

●今日は、このほか九月三日以来、各方面から集めた公報など官庁の出版物を子細に眺めてみた。公報としては「神奈川県公報(九月四日午後十一時)」「静岡県公報」「埼玉県公報」「千葉県公報」「航空部飛行偵察情報」(註:日記には転載してあるが、詳細は中略)である。

 詳しい被害状況がこうして公報その他によって分かってきたので、被害の分布が見渡せるよう「地震区域図」を作ってみた。この図は今日までに集まったまだ不十分な材料によって作ったものだが、あの大地震の全貌を捉えていると思う。

 この図をよく見てみると地震直後に推測した「震源は伊豆大島付近」というのがやや南に偏りすぎていたという疑いがある。ことに伊豆大島では揺れはそれほど激しくはなかった。また伊豆半島でも東海岸で揺れが大きかったところがあるが、それ以外ではそれほどの被害は生じていない。

 これに対して湘南地帯一帯では揺れがもっとも激しく、被害も大きかった。震源からはある程度離れているはずのところだから不思議に思えるが、これは地震の揺れや被害は震源からの距離だけではなくて地盤のよしあしで大変に違ってくるということの影響であろう。

(中略)今回の地震は火山性の地震ではなかったことは確かである。(後略)


一九二三年九月七日(金曜)

 朝、陸軍士官学校を訪れた。そこで飾りに立てていた砲弾が地震で転倒していた。これらの砲弾が倒れるにはどんな地震の揺れが加わったかを計算してみるよう、兵器学の教官に依頼した。これで地震のときのここでの揺れが分かった。

 それから九段坂方面の被害状況を調べ、近くに住んでいて被害にあった帝大の岸上冬彦教授(註:のちの東京大学地震研究所の地震学の教授。私=島村が大学院生のころは”地震研の三馬鹿”と言われていた一人。私がいた当時、東大では理学部の先生達は地震研究所の先生達を見下していた。地球物理学教室の先生達は少ない研究費で教育と研究をしているのに、地震研究所は研究だけで、研究費もたっぷり使っているのにろくな研究をしていないというのである。たとえば、あとの二人の先生、森本良平氏と水上武氏ともども、科学論文の数がごく少なかった)を番町の焼け跡に訪ね、その後中央気象台(註:いまの気象庁)の地震課を尋ねて、地震観測の結果を見せて貰った。

  気象台の地震学の職員中村左衛門太郎氏(註:翌年から東北帝大の地震学の教授。都内で被災して(註:品川区)大崎の仮住まいで暮らしていた)はあいにくと不在だったが、連絡を取りたいと伝えて貰ってから大学へ行った。


一九二三年九月八日(土曜)

 鉄道省と内務省から詳しい被害情報の報告が来た。また末広恭二博士(註:帝大工学部教授。関東地震の翌年、今村たちの尽力で東大地震研究所が作られたときに初代の事務取扱を務めた)が音信が途絶えた家族の安否が心配で鎌倉まで行って帰ってきた際、横浜、鎌倉、横須賀などの神奈川県下の被害状況を詳細に知らせてくれた。鎌倉での揺れがとくに激しかったこと、三浦半島と湘南地方で陸地が大きく隆起したことも知らせてもらった。

 この日に「大震調査第三回発表」を行った。これは次に掲げたとおりである。

●「大震調査第三回発表」

 余震は順調に沈静化しつつある。今後は大地震を恐れることはないのは第二回(註:謄写版で五〇部印刷し、警視庁に歩いて届けたものが第二回発表である)に詳しく説明したとおりである。

 その後、余震について調査して、本震のときにどこで何が起きたかをかなり知ることができた。(中略)本震の震源は、前に発表した伊豆大島近海の震源を中心に房総半島の南端から伊豆半島東岸中央付近まで広がった細長い震源であった。つまり元禄地震(註:一七〇三年)の続きとも言える地震であった。(長文だが後略)


一九二三年九月九日(日曜)

 東京帝大の地質学の教授で震災予防調査会の委員でもある加藤武夫氏に来てもらって伊豆半島と三浦半島と房総半島での地変の調査を依頼した。(註:関東地震のような海溝型の大地震のときは、これらの半島の先端は地震と同時に上昇する。逆に大地震と大地震の間にはゆっくり沈降していく)。加藤委員は鈴木理学士とともに十一日に出発することになった。この日は地質調査所長で震災予防調査会委員の井上博士ともこれらの地変調査について議論を続けた。

 震災予防調査会の建築関係の委員とも、ようやく連絡が取れるようになった。

 中村清二博士は駆逐艦『江風』に乗って北条(註:房総半島の南端近く。現在は館山市北条)、館山、伊豆半島南東沿岸の視察をして帰ってこられた。


一九二三年九月一〇日(月曜)

 震災予防調査会の委員でもある寺田寅彦博士の意見に従って、この大地震後初めての震災予防調査会の委員会を十二日に開くことにした。


一九二三年九月一一日(火曜)

 急使を派遣して震災予防調査会の委員会開催の件を各委員に通知した。

 この四、五日間、地震の状況の問い合わせをするための来客が多く、研究や事務を妨げられることが多い、そこで夜の間に次のような文章を書いて来客に渡すことにして、わずらわしい応接の時間を節約することにした。

●『大地震雑話』

「ああ、こんな大地震は世界の震災史にも全く例がない。何もかも、まるで夢のようである。

 とはいえ、地震の揺れの強さからいえば、この関東地震なみの揺れは少なくなかった。じつは日本でも珍しくはない。

 今度の震災では死人の数は八万人にも達するであろう(註:最終的には一〇万人をはるかに超えてしまった)。

 しかし隣国の支那(註:中国)では八三万人の死人を数えた地震もあった。イタリアでは一〇万、あるいはそれ以上の死人を生んでしまった地震を二回も経験している。なかでも今から一五年前に起きたメッシーナ地震では、メッシーナ市内だけで一三万八千の人口のうち八万三千の圧死者を出し、周辺の市町村を合わせれば一四万人もの死者を数えた。

 今回の関東地震では地震だけの損害は大したことはなかっただろう。おそらく数千の死者にとどまり、家屋の損害も一億円の単位であったに違いない。

 しかし損害は火災のために数十倍にもなってしまった。損害は死人一〇万、財産の損失は百億円に達するのではないかとも言われている。死者と損失を合わせたこれほどの大被害は、かつて世界の歴史にはなかった。じつに酸鼻の極みである。(中略)

 考えるたびに残念でならないのは、私が今まで機会あるたびに大地震が起きれば消防能力が足りない、水道は破壊されて使い物にならないと叫んできたからである。

 私はいずれやってくる大地震は東京にとって避けられない運命であることを信じ、しかもそれが数十年以内に東京を襲うことがあることを憂慮して、それを世間に発表していた。十八年前のことである。そのときに消防能力の不足から十万、二〇万の死人を生むような惨劇を演じるかも知れないと指摘していた。

 この私の意見が世の中に全く受け容れられなかったのはかえすがえすも無念なことであった。多分、私の研究の未熟さや、自信のなさや、私が軽率だったことによるのであろう。

 しかし今回の大地震が日中に起きて、しかも火気をあまり使っていない夏に起きたことは不幸中の幸いだった。条件によっては、もっとはるかに大きな震災になりかねなかったからである。

 いまさら死児の歳を数えるようだが、これから復興を目指しているいま、東京を襲う大地震の宿命について述べておくことは無駄ではあるまい。

 江戸時代以前は史料が不足していて定かではないが、江戸時代以降現在に至るまで、東京で家屋を半壊させた以上の大きな地震は一七回にもなる。(中略)

 次に外側地震帯(註:前出)については、房総半島の南東沖で元禄の大地震(註:一七〇三年)が起き、その後安政元年に駿河沖に大地震が起きた(註:一八五四年の安政東海地震)。しかし私が長年、疑問に思ってきていたのはこの地震帯のうちで、相模の沖合だけがかつて大地震が起きた歴史がないことであった。今日、この大地震が起きて、この疑問がようやく解けたことは、なんという不幸なことであろう。(中略)

●帝都である東京の復興に向かって動き出しているいま、思い出すのはイタリアのメッシーナ市の復興である。
 前に述べたように、同市は一五年前の大震災によって、火災こそ起こさなかったものの、市街は全滅して市内だけで一三万八千の人口のうち八万三千が無惨な圧死を遂げてしまった。地震直後には、膨大な瓦礫を撤去できるのだろうか、市街全体を廃墟にするほかはないのではないかとまで言われたほどの被害であった。

 私はこの廃墟を見るつもりで昨年、現地を訪れたところ、なんと市街地は立派に復旧され、人口も一五万人を数えるほどになって、以前にも増して活気のある町になっていた。いままでは震災には無頓着だったイタリア人も今回ばかりは懲りたらしく、道路を拡げ、公園を増やし、高層住宅を禁止した。建物は原則として二階建て、やむをえないものだけは三階建てということだった。私はこれこそ地震国の都市の理想像だと感じた。(中略)

 今回の関東大地震でいちばん感銘を受けたことは、世界でも未曾有の大震災に遭っても、老若男女、いささかも秩序を乱すことなく沈着に行動したことである。

 実際、私は茫然自失したり号泣している人を見なかったばかりか、被災者たちは平時以上に緊張して立ち働いているように見える。『安政地震見聞記』には「禍を転じて福となす」とあるが、今回の地震でも大地震後の人々を見て、意を強くしているのである。」


一九二三年九月一二日(水曜)

 午前は自動車を駆って各地の被害状況を視察した。まず自宅近くの西大久保から新宿、代々木を通って澁谷に出、その後天現寺、金杉川の流域を見た。とくに網代、新網、森元町あたりで被害が多いのを見て「東京市街地震動分布予察図」を改良しなければならないと感じた。

 その後、伊皿子台、八ツ山下、高輪、田町、金杉橋を経由して銀座通りから日本橋通りに進み、両国橋を渡って本所区内を見て、とくに被服廠跡では哀悼の意を表した。(註:燃え広がる火災から逃れた人々がここに集まってきたが、ここも燃えて三万八千人もの人々がここで焼死した。現在、ここは横網公園になり、震災記念館が建てられている)

 その後再び両国橋を渡って(自動車が通れるのはこの橋だけになっていた)、浅草観音が安泰だったことを見た。とくに境内の軒や瓦に被害がまったく見えないのに感心した。浅草観音が焼け残ったのは、周囲に樹林があったせいに違いない。(註:巷には観音の御利益だという説が専らだったが、さすが科学者は冷静である)。

 午後、震災予防調査会の地震後最初の委員会が開かれた。被災した委員も多かったが一七名という多数の委員が参加した。調査の部署を決めるための特別委員を選び、その委員たちを中心にして明後日十四日に、再び委員会を開くことにした。


一九二三年九月一三日(木曜)

 午前中に、昨日の委員会で特別委員として選ばれた中村清二博士、寺田寅彦博士、佐野博士と地震学教室で集まって打ち合わせ、午後にもまた、打ち合わせの会合を開いた。


一九二三年九月一四日(金曜)

 午後から震災予防調査会の委員会を開いた。出席者は一五名。調査の委員の分担を次のように決めた。

一.地震観測(以下、委員名は省略)
二.地震
三.気象
四.建築
五.鉄道
六.河川、建築、道路、橋梁など、鉄道以外の土木工事
七.地震に起因する火災
八.各種の公報、私報、新聞記事などの収集整理
九.死傷
十.機関工場(中略)

 なお、本震災予防調査会の経常費が残り少なくなったために臨時調査費を請求することになった。この外交と、新委員を交渉する件は、委員の古市男爵にお願いすることになった。


一九二三年九月一五日(土曜)

 一日地震学教室にいて、昨日の委員会の結果を整理した。委員会でいちばん残念だったことは、震災予防調査会そのものが世に知られていないだけではなく、文部省当局にさえ正当に評価されていなかったことだった。

 このため私が以下のように会の自己紹介を行うことにして、これを関係各方面に提出した。

 震災予防調査会は(長文だが後略)


一九二三年九月一六日(日曜)

 午前には地震学教室で、本震の記録のうち東西動と南北動の記象を組み合わせて、実際の地面の動きを時間順に合成した。(中略)今回の地震の振動の性質は安政二年の江戸地震のものとは全く異なることが分かった。

 家屋の被害を安政地震の場合と比べると小さい木造の家での被害は相対的には軽い揺れだったと思えるが、より大きな建物の被害はずっと大きくなる揺れだった。

 上野にある大仏の首が、また落ちた。この首は正保四年、慶安二年など、いままでも地震の揺れが大きいときはたびたび落ちたものだ。また落ちたか、と少しおかしく思えた。

 午後からは岩手県の水沢にある臨時緯度観測所(註:緯度観測所)(註:宮沢賢治の『風野又三郎・初稿』にはここに勤めていて、Z項という地球の回転の乱れに関係する重要な係数を発見した木村栄博士が観測所のテニスコートでテニスをしている描写がある)から応援に来てくれた池田理学士と、根津、谷中、根岸方面の被害調査を行った。(中略)

 かつて私は東京市街地での震度分布の予想図を作ったことがあったが、今回の被害を見て修正する必要を感じたので、まず焼け残った区域で調査をすることにしたのである。(註:焼け残った建物を調べることは、地震によってどのくらいの震動による被災があったかを地域別、建物別に調べることになる。これは将来の震災に備えたり耐震建築を考えるために重要なのである)

 ただし、いちいち私が飛び回る時間はないので、調査方法を伝えて他人に依頼することにした。池田理学士、小幡理科学生、それに子供たちである。


一九二三年九月一七日(月曜)

 これまでは登山服姿でもっぱら徒歩で調査をして歩いていたが、今日からは震災予防調査会で自動車を一台借りられることになった。この車を使って午前中は池田理学士たちと千住までの調査、午後は寺田寅彦博士たちと浅草今戸あたりまで調査に出かけた。


一九二三年九月一八日(火曜)

 震災予防調査会で新規に加えた委員の顔ぶれが、ようやく揃った。

 午前中、消防本部を訪れて、新たに委員に加わった緒方氏と会った。今回の大火災では消防は必死の努力をした。消防署員をはじめ、署長さえ殉職した例が多かった。二昼夜も悪戦苦闘を続け、とくに(註:江東区)本所、深川では五つの消防隊のうち三つまでもが全滅したほどであった。(中略)以下、消防部が発表した記事によってこれほどの大火災を招いた原因を解析し、今後の地震火災を予防する参考にしたい。

一)発火の場所は多数に上った。地震後三〇分以内に消防隊が把握したものだけでも東京市内で七六件あったが、電話は不通になっており、それ以外にも多数あったものと思われる。昼食時で家庭で火を使っていた時間だったことで出火が多く、また薬品など発火物からの発火も目立った。工場や飲食店などからの発火も多かった。

二)強い揺れによって地下に埋めてあった水道管が破裂した。地震後三〇分で消火栓は全く使えなくなった。

三)家屋が倒壊したり、倒壊しなくても屋根瓦が落ちて木材が露出したために火が燃え広がりやすかった。

四)電話、火災報知器、消防専用電話のいずれも地震と同時に不通になった。それだけではなく、江東その他では大小の橋が落ちたり燃えたりして通行不能になった。そのほかでも家が倒壊したり、電線が道路をふさいだりして消防の移動を妨げた。

五)大規模火災で空気が暖まって上昇したために、周りから風が吹き込んで起きる火災旋風が起きて火の勢いを一層増した。地震発生時には毎秒一〇メートルだった風速は六時間後には毎秒二七メートルにも達する烈風になった。

六)避難する人々が家財道具を持って先を争って逃げようとして道路をふさぎ、交通は渋滞し、そのうちに猛火に追われて焼死したり、河川に身を投じて溺死する者が多数、出た。

 午後は中村清二、寺田寅彦両博士たちと和泉町や向柳原で焼け残った地域を訪れ、さらに本所深川を経て、小松川までを調査した。和泉町と向柳原は下町としては珍しく焼け残ったところである。和泉町は東側に建っていた済生会病院の煉瓦建築が防火壁として作用したもので、向柳原は火流がまわりを一周したのに、松浦伯爵邸の泉水が火事を防ぎ止めたものであった。


一九二三年九月一九日(水曜)

 発火した場所は、震度分布図と密接な関係があることが分かった。つまり震度が大きいところほど、発火が多かった。(註:江東区)本所深川の火災がもっとも激しかったのもそれである。(註:地盤が軟弱なところは震源からの距離に関わりなく、震度が大きかった。)

 午後から、震災予防調査会の各委員と、麹町や赤坂方面で燃えなかった地域を訪れて調査した。(註:燃えなかったところは揺れによる家屋の被害が残っているので、地震の調査としては重要である)。


一九二三年九月二〇日(木曜)

 中村清二、寺田寅彦両博士、池田学士などと、震災後初めて横浜まで調査に出かけた。品川あたりまでは都内とそれほど違わない被災状況だったが、大森から先は震動による被害がずっと大きいのが目立った。

 川崎では大工場、なかでも明治製糖工場と東京電気工場なとに大変な被害が出ていた、これは田圃を埋め立てた軟弱な地盤に工場が建っていたからだと考えられる。(中略)子安、神奈川区あたりは、震動は重力加速度の四分の一にも達した大きな揺れだったであろう。このあたりでは倒壊家屋も増えてきた。

 横浜はもっと悲惨だった。全部消失してしまった下町では煉瓦の残骸を見ても、また形は残ってもピサの斜塔のように傾いてしまった土蔵や煉瓦倉庫を見ても、震動は重力加速度の三分の一にも達していたであろうことが推測される。なお震動の方向は建物の倒壊方向から見ると、ほぼ東京と同じであった。


一九二三年九月二一日(金曜)

 丸の内にあるビル街を調査した。東京會舘、郵船ビル、丸の内ビルなどの鉄筋コンクリート造りの背の高いビルは、それなりの被害を受けていた。

 一方、銀行集会所、興業銀行、田中大川事務所などの煉瓦建築は、意外なほど無傷であった。ことに興業銀行の七階建ての鉄骨煉瓦建築が、外側には亀裂ひとつもなく建っているのに感心した。煉瓦建築も、設計や施工が良ければ、十分に丈夫なのであろう。

 もっとも、こう書いたからといって私は鉄筋コンクリート造りのビルが一般的に弱いといっているわけではない。適当な耐震設計をすれば、十分に丈夫なはずである。

 その後、芝方面にまわって、火災の延焼が止まった条件を調査した。金杉三の一六にある松宮久兵衛氏の石造倉庫が火をくい止めたことは明らかであった。聞くと、この倉庫が延焼をくい止めたのはこれで三度目だという。表彰の価値があるほどのものである。


一九二三年九月二二日(土曜)

 午前は久々に雨が降ったので地質調査所を訪れて、地盤調査の進み具合を聞いた。

 昼からは中村清二、寺田寅彦両博士と(註:江東区)本所深川方面を調査し、小松川まで行った。


一九二三年九月二三日(日曜)

 汽車に乗ってまず神奈川県茅ヶ崎に行き、馬入川の鉄橋が破損している状況を見た。どの橋脚も南二〇〜三〇度東の方向に、レールを背負ったまま倒れていたのは、いかに震動が強かったかを示している。(中略)このへんから鳥井戸、辻堂あたりは震動は重力加速度の三分の一から五分の二にも達したらしく思われる。

 大船へ引き返し、鎌倉へ行く。鎌倉名所は、いずれも惨憺たる状況で(中略)ついでに八幡の一の鳥居に近い島津邸を見舞った。ここは二階建ての本邸がぺちゃんこに潰れて、公爵夫人と五人の令息令嬢が下敷きになったところである。幸いに一時間後に無事に救出された。笹目ケ谷の島津邸でも公爵など二、三名が下敷きになられたが、これも一時間後に救出された。

 この家の建築の基礎工事の設計には私も参加した。天然の岩石から直接に蝋燭石をセメントで固着して土台を作った平屋はびくともしていなかったが、そうではない二階屋が潰れてしまったのである。(中略)

●帰りの汽車ではさんざんな目に遭った。たいへんな混雑ぶりで、鎌倉から大船まではなんとか乗れたものの、乗換駅の大船からの東京行きは超満員であった。窓から乗り込む人だけが客車に入れるほどで、駅で待っていた大部分の客は乗れなかった。

 この日、私は鈴木鉄道技師の案内で馬入川の鉄橋を視察に行った関係で、鈴木技師から機関士に特別に頼んでもらい、蒸気機関車のすぐ後ろの石炭の上に乗せてもらった。しかし、これを見た他の乗客が騒ぎ出し、あいにくと制服ではなく平服だった鈴木技師と私は鉄道職員の乗車証を彼らに見せて、ようやく納得してもらった。

 だが苦難はそれだけではなかった。戸塚のトンネルをくぐったときには、すぐ前にある蒸気機関車の煙突が壮大に吐き出す亜硫酸ガスや火の粉や煤に攻められて、被服廠跡の苦しみもかくや、と思ったほどであった。


一九二三年九月二四日(月曜)

 今日は暴風雨なので室内調査をした。横須賀の海軍の検潮儀の記録に大地震と同時に陸地が隆起したことを示す記録が得られていただけではなく、地震の四〜五時間前から鋸の刃のように変動する記録が得られたというので、これこそ地震の前兆ではないかとの期待があった。

 しかしそうではなかった。これは前夜半から地震当日の朝にかけて低気圧が通過したために生じた潮位の変化だったのである。(註:低気圧が来ると潮位が上がる)。

 伊豆半島と三浦半島の調査に行っていた加藤委員たちが帰ってきた。彼らは熱海の沖にある初島まで行き、そこでは五、六尺(註:一・五〜二メートル)も地盤が隆起したことを報告してくれた。(後略)


一九二三年九月二五日(火曜)

(前略)待ちに待った三浦半島・油壺の検潮儀の記録のコピーが三角課長から届いた。(註:九月六日に陸軍省測量部を今村が訪れて依頼してあったもの)。はやる気を抑えながら開封してみると、なんと、私の期待はことごとく裏切られていた。地震の前にはなんの前兆現象も記録されていなかった。いままでに前兆らしきものは、ひとつも見つからなかったことになる。

 そればかりではない、地震直後には大揺れのために記録用の時計も止まってしまっていて、たんに地殻が隆起したということだけが分かる記録だった。これでは地殻変動の時間変化が分からない。大いに落胆した。

 この潮位の振幅は一・四四四メートル(四尺八寸)を示していた。(註:これは、地震によって、この分だけ地殻が飛び上がったことを示している)(後略)


一九二三年九月二六日(水曜)

 震災予防調査会の事業がまだ十分に世に知られていないので、次のような文章を書いた。

 「政府は濃尾大震災(註:一八九一年に岐阜・愛知県を襲った近年では日本の内陸で起きた最大の地震、濃尾地震のこと。マグニチュードは七・九だった)の惨事を経験して本会を設立した。

●【震災予防調査会の由来、その活動と将来】

 地震、建築、土木、地質、物理、機械およびその他の専門の一流の人々を集めて本会の委員とした。こうして、あのような大地震が再び襲ってきたとしても、あのような災害から免れるための調査研究をすることになったのが震災予防調査会の始まりである。

 以後三〇年、本会の調査は(中略)

 都市復興計画に対する注意事項(後略)」


一九二三年九月二七日(木曜)

 中村清二、寺田寅彦博士らと(註:火災で三万八千人が焼死した)本所の被服廠跡や安田邸に行って、火災旋風の研究をした。旋風の向きは反時計方向だったこと、その風速は極めて強かったことが、風で根こそぎなぎ倒された(註:根元の太さが三〇〜四五センチもある太い)樹木から分かった。また自転車さえも高く舞い上げられて銀杏の高いところに引っかかっていたそうである。

 つまり被服廠での何万という犠牲者は、このような火災旋風に煽られた炎によって、ごく短い間に焼き尽くされてしまったものであろう。この火災旋風は今回の震災でももっとも悲惨な被害だったから、今後さらに詳細に研究する必要がある。

 私はその後、中村、寺田博士の一行と別れて、向島、鐘ヶ淵方面で焼け残った地域で調査した。この辺一帯の震動は重力加速度の六分の一程度だったのが分かった。神奈川県下などと比べて小さかったが、それでも火災によってこれだけの死者を生んでしまったのである。


一九二三年九月二八日(金曜)

 東京市内でも低地である(註:文京区の)茗荷谷、(註:港区の)白金あたりを調査した。このような谷は、軟弱な地盤なので、建物の被害が多い。

 板橋方面は(註:高台なので)地盤はおおむね良い。

 しかし低地である(註:北区)王子は東京の北部近郊では震度がもっとも大きかったのであろう、潰れてしまった家屋が多く、とくに柳町あたりでは、数十軒がひとかたまりになってぺちゃんこに潰れてしまっていた。

 そして、荒川に沿った(註:北区)尾久の一帯では、建物の被害から見て、震度はさらに大きかったようだ。(註:荒川区)三河島では尾久ほどではないが、震度は相当に大きかったようである。


一九二三年九月二九日(土曜)

 午前中に(註:江東区)深川方面を調査した。午後には市勢調査会を訪れて、会の幹部や米国・ハワイの火山観測所長ジャッガー博士と意見の交換をした。

 その後、市勢調査会長の後藤新平子爵に、復興のときに考えるべき方策や今後東京を襲うかも知れない大地震とその対策について、いろいろの提言を行った。(註:内務大臣でもあった後藤は震災後の東京の復旧に大いに力を尽した。広い道路、新しい都市計画などは後藤なしには出来なかった)。(後略)


一九二三年九月三〇日(日曜)

 再び(註:江東区)深川方面を調査した。越中島から木場に至る一帯は地盤が極めて軟弱なところだから被害も大きかったが、意外にも深川区の西部の被害は、それほどでもなかった。


一九二三年十月一日(月曜)

 近頃は、東京市内で消失してしまった地域で、消失以前の、つまり地震直後の家屋の被害状況を調べている。(註:焼け残った建物の被災状況を調べるのと同様、燃えてしまった建物でも、火災前に地震の震動による破損や倒壊を地域別、建物別に調査することは重要なのである)。このためには、そこに住んでいた被災者から聞き出す必要がある。この仕事は学生諸君に依頼した。私は警察の調査を聞いてまわっている。

 警察によっては地震直後に機敏に巡査をまわらせて調べ上げたところもあり、他方火のまわりが早かったために調査が出来なかったところも多かった。この後者の場合は、受持巡査の記憶を辿ってもらって聞き出した。

 今日の午後は寺田寅彦博士と一緒に、相生、西平野、太平、亀戸の各警察署を歴訪した。(中略)今日の調査でもっとも印象が深かったのは、被服廠跡で遭難したが幸いに助かった相生警察署の警部補、佐々木俊雄氏と小浜氏の話だった。(中略)

 被服廠跡で助かった人たちは約二千人とのことだが、彼らの多くは被服廠跡の中央から南に避難していた人たちだった。彼らは僅かな水を土に浸して、それを皮膚に塗って火を避けたり、地面にうつぶせになって地面に向かって呼吸したことで、ようやく助かったという。

 警官らが目撃した話では、火災旋風の炎に襲われた人々は、見る間に黒焦げになって、たちまち息が絶えていったという。(後略)


一九二三年十月二日(火曜)

 寺田寅彦博士とともに、午前中は原庭警察署と南元町警察署へ、午後は南千住警察署と警察署回りをして資料を集めた。どこでも貴重な資料が得られたが、中でも南元警察署では後の火災で管内が消失してしまったのに、その前に管内の各町内の倒壊家屋の調査をしていたのには感服した。(中略)

 夕方、地震学教室に帰ってみると電報が来ていた。オーストラリアの出張(註:国際学会)から帰国途中の大森房吉先生がご病気だという。乗っている天洋丸の船長から大学の総長への電報で、横浜まで迎えにきてくれという趣旨であった。まことに心痛の至りだが、どんな病状なのか問い合わせてもらうことにした。


一九二三年十月三日(水曜)

 寺田寅彦博士や池田学士とともに王子警察署に行き、その後(註:北区)王子町と尾久町を調査した。王子は東京の郊外としては(註:いまは都心とも言える場所だが当時は郊外だった)とくに震災が酷かった町である。

 家がぺちゃんこに潰れてしまった場所を地図上に描いてみると大事なことが分かった。被害地域は細長い線状に伸びていて昔の石神井(註:しゃくじい)川の河床の跡と一致していたのである。(註:昔の河川の跡を埋め立てたところは地盤が軟弱で、震度が大きく震災を受けやすい。)


一九二三年十月四日(木曜)の補遺分(これは「日記」ではなく今村明恒著『地震の征服』<今村明恒、『地震の征服』、南郊社、1926年、392頁、定価3円20銭>から)

 九月一日に大地震が起きてからは当面の急務に忙殺されていて、ほとんど何も考えるひまがなかった。しかし九月四日に震災予防調査会を開かなければならないことを思い出したときに、大森房吉先生のことも同時に思い浮かんだ。

 今頃は出張先のオーストラリアにも大地震のことが伝わっているだろう。苦悶しておられるに違いない。先生の立場になって考えてみると耐え難い思いがする。

 今回オーストラリアへ出かける前、留守中の事務について引継をされたが、そのときに私が「もし大地震でもあったらどういたしましょう」とお聞きしたら、そのときは臨機応変に対応してほしいと返事をされた。(註:この質問にせよ、その後一九四四年の東南海地震を想定して国土地理院に地殻変動の測量を依頼して測量中に地震が起きたなど、今村明恒は将来の地震についての不思議な”勘”があったのかもしれない)

 こんないきさつもあったので、震災予防調査会での調査事業として何をするかや必要な分野の委員を増やすことなど、私は自由にやっていい立場にあることを思い出したのである。先生が帰国の際には、もし越権と仰せられるのならば辞職も覚悟で最善の努力をしたいと思って、いままで努力してきた。

 しかし十月二日に、オーストラリアの出張から帰国途中の天洋丸の船長から大森房吉先生がご病気だという電報が来た。その後、どんな病状なのか、問い合わせた結果、病気は回復の見込みが少ない重病で、もし幸いに回復されても元通りの活動は無理との知らせが入った。このため、私の決心もにわかに鈍ってしまった。

 十月四日に理学部長の出張命令で、理学部の職員を代表して大森房吉先生を出迎えるために、天洋丸が到着する横浜まで行った。

 到着予定の朝九時になっても船影が見える様子がなく、遅れているようだった。この時間を利用して、いままで調査していなかった横浜の根岸を中心にした山の手を訪れた(中略)。昼になって、大学から塩谷医学士や福士医学博士も大森房吉先生の迎えに来られた。

 船はちょうど午後三時に到着した。すぐに上船し、先生と面会したが、ご病気はかなり重いご様子で、衰弱も甚だしかったが意識だけは明瞭であった。

 私が挨拶したのに対して、すぐに、息も苦しげに「今度の震災については自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方がない。ただし、水道の改良について義務を尽くしたことで自分を慰めている」と言い終わるか終わらぬうちに嘔吐を始められた。興奮による発作とのことだった。(註:大森が言っている「水道の改良」とは、震災時に水道の鉄管が破損する危険を大森が主唱していたことを指す)

 塩谷医学士の診断に従って午後四時に上陸し、自動車に安座のうえ徐行して帝大の大学病院に向かうことになった。午後八時に病院に着いて三浦内科に入院した。

 落ち着かれた頃を見計らって病室に入ったら、すぐに地震の話を始められた。まず地震学教室の様子を聞かれた。「教室員が全員一丸となって、屋根が三度も燃え上がったのを消し止めたので、教室は全く無事でした」と答えたところ、大いに満足されたようだった。

 「地震が起きたときにあなたはどこにいましたか」と問われ「ちょうど、地震学教室におりました」と答えたら、「それで教室が助かったのです」と言われた。

 ついで先生は震災予防調査会の状況についても聞かれたが、主治医に、あまりに興奮がすぎるからと止められて、また別の日にお話しすることにした。しかしその後ほかの面会者からも、震災予防調査会などの私たちの活動をお聞きになって満足されておられたという。

 数日後、先生は震災予防調査会の事務員を呼び、先生を会長の専任職に、また私を幹事に任命するという手続きを命じた。また帝大理学部の事務員にも私の待遇を昇進することを依頼したとのことである。

 これを聞いて、先生が私に好意的にものごとを図ってくださるようになったことが明らかになった。多年続いてきた先生と私の論争の問題も氷解した。先生は今回の地震後の私の処置も認めてくださり、さらに今後の奨励もしてくださったのである。

 しかし誠に残念なことに、先生が希望された会長専任の辞令(註:会長に退いて幹事を私に任せるという辞令)の発表が遅れて先生のご臨終(註:十一月一八日)の数日前になった。このように発表が遅かったため、ある新聞は官僚式の虚偽だと決めつけ、大森博士のような真面目な学者がもし回復していたらどのように怒るだろうとまで書いたものさえあった。(註:論争を続けてきた二人を煽ってきたのは新聞などメディアであった)

 しかし私はご自分の職務の中から、当時もっとも忙しくて大変な部分を私に託されて、私を名実ともに会の幹事にしてくださったことで満足なさったのが本意だったと思っている。

 天洋丸の船員によれば、先生はもともとの予定である神戸に上陸したら、すぐに大阪に赴いて講演をする希望であったという。このことを考えても先生の心境は理解できる。

 こうして十月四日は私の立場を、全く考え直さなければならなくなった日であった。


本来の一九二三年十月四日(木曜)の日記
【解説】大森房吉が帰国した一〇月四日の分は「日記」には簡単に触れているだけだが、『地震の征服』では一節を設けて三頁にわたって、日記とは別に書いている。

 理学部長の出張命令で、理学部の職員を代表して大森房吉先生を出迎えるために、天洋丸が到着する横浜まで行った。

 予定の朝九時になっても船影が見える様子がなく、遅れているようなので、この時間を利用して、同行していた黒坂助手とともに、いままで調査していなかった横浜の根岸を中心にした山の手を訪れた。この辺は震動は重力加速度の四分の一から五分の一にも達した大きな揺れがあったところである。

(根岸での調査は略)

 昼になって、大学から塩谷医学士や福士医学博士も大森房吉先生の迎えに来られた。

 船は午後三時に到着した。

 すぐに上船し、先生と面会したが、ご病気は軽くはない様子で、衰弱も甚だしかったが、意識だけは明瞭であった。

 熊谷医学士の診断に従って、自動車に安座のうえ、徐行して東京帝大の大学病院に向かうことになった。

 午後八時に病院に着いた。病院でも、興奮して私に対してすぐに地震の話をされるので、医者に面会を止められた。安静にすることが必要なのだという。


一九二三年十月五日(金曜)

 この日は震災予防調査会の第三回の委員会であった。出席者も二〇名を超えるほどの盛況で、(中略)

 夜は島津科学普及館に行き、今回の地震後、初めての講演を行った。(中略)

 満場、立錐の余地もないとはこのことだろう。入場した私が演壇に行くまでも人波をかき分けて大変な苦労だったし、声が後ろまで聞こえない、ということで、結局は演壇の机の上に立ったまま、講演をすることになってしまった。


一九二三年十月六日(土曜)

 寺田寅彦博士と上野警察署と日本堤警察署へ行った。

 この署内に(註:色街として有名な)洲崎や吉原がある。地震後は震災調査のために何度か通ったが、地震の前には訪れたことはなく焼け跡を見ただけなので、どうにも感じがつかめない。こんなことならば「ナマのうちの」須崎や吉原を見ておけばよかったとつぶやいていたら、謹厳実直な寺田寅彦博士も、笑いながら同感された。(註:吉原遊郭は一九一二(明治四五)年の大火後、木造の西洋建築風の瀟洒な建物が並んでいた)。(中略)

 二、三日前から思いついたことだが、地震のときに東京市街の各地点の揺れ方の違いを知るために地震計をいくつか臨時に設置して、余震を同時に観測する計画を立てた。(註:本震でも余震でも、揺れやすいところ、揺れにくいところは同じに出るはずだからである。将来の地震のときに震災が大きいところが予想できるようになる)。このために観測器の準備を始めた。じつはもっと早く気がつけばよかったのだが、これも愚者の知恵なのであろう。(後略)


一九二三年十月七日(日曜)

 中村清二、寺田寅彦両博士と坂本警察署と象潟警察署へ行った。(註:地震以来、今村ら教室員がずっと日曜返上で働き続けていたことが分かる)この日とくに印象が深かったのは坂本署長が火災を食い止めた話だった。

 ここでは地下の水道管が地震で破損して全く水が出なくなっていて、出動した消防隊も軍隊もすでに諦めていた。しかし坂本署長は屈せず、署員を指揮、督励して、梯子や縄を使って燃えているところを引き倒して火を小さくするのを試みた。「引き倒し消防」である。

 そして通りかかった男たちまでも警察署長の権限で強制して引き倒し作業に参加させ、ついに猛火をくい止めたのであった。このため根岸、日暮里、金杉の一帯に火が回るのが防がれたことになった。


一九二三年十月八日(月曜)

 午後に警視庁の建築課を訪ねて資料をもらってきた。それらは市内で消失しなかった部分の家屋の被害状況についての詳細な取調書、焼失区域の区域図などである。

 その後、市勢調査会に渡邊法学博士を訪ね、頼まれて行くことになった私の大阪行きの打ち合わせをしたあと、後藤子爵にも面会して、震災予防調査会の調査の現況を知らせた。

 またビア−ド博士にも面会した。


一九二三年十月九日(火曜)

 大阪に向けて汽車で出発した。渡邊法学博士とその兄である鈴木氏も同行した。

 車中で横浜に住んでいるフランス人と話したが、この人は横浜で、一七歳を頭に娘三人を地震で失ったという、気の毒に堪えなかった。

 地震後、汽車で平塚までは以前に視察したことがあるが、そこから先は、初めて見る震災のありさまであった。

 平塚、二宮、大磯、国府津などの被害は新聞で見たとおりであった。しかし、二宮と国府津の間にある梅澤は、私が見たかぎりの鉄道沿線で、もっとも被害が軽かった。震度が小さかったのであろう。

 じつは元禄の大地震(註:一七〇三年)のときにも、まわり一帯に大被害を被ったのに、ここだけ被害が小さかったことが記録されている。(中略)

 地震嫌いの人が、将来、別荘でも建てるのにはもっとも適した場所であろう。それは、東海道の汽車の沿線でここだけが第三紀層の比較的固い地盤だからである。

 一方、下曽我の駅舎はほとんど倒壊し、もともと田畑の上に建てられたそのまわりの町も含めて、地盤が一挙に沈下してしまっている。

 このほか、沿線で悲哀を感じたのは、相模紡績工場、富士紡績工場などが無惨に倒壊してしまった姿だった。

 しかし、御殿場から西では被害も次第に軽くなっているようで、沼津に至って、ようやく地震被害区域の外に出たような気持ちになった。


一九二三年十月十日(水曜)

 朝八時に大阪に着いた。大阪ホテルで日程の打ち合わせをしたあと、しばらく時間があったので、東京では払底してしまった、震災調査用の写真材料を買い出しに行った。

 心斎橋近くにある知人の家を訪ねたところ、近頃、大阪では今にも大地震が起きそうな騒ぎだという。寝るときにも貴重品をまとめて枕元に置いて寝ているほどで、いざとなったら、どの道を通ってどこに避難するかという計画まで出来ているそうだ。

 また警察や消防では、大地震に備えて予行演習までやっているという。(註:関東大震災を見て、次は、日本第二の大都会、大阪だという流言が飛び交っていた。今村明恒が大阪に呼ばれた理由もそれであった)

 午後には四つの講演をした。最初は大阪府当局、とくに警察や消防、第二には大阪市の当局や参事会員、第三には実業同志会、第四には一般大衆への講演を大阪市の公会堂で行った。

 どの講演も、大阪を襲う地震の宿命について述べ、これに対する備えを論じたものだが、それぞれの講演で違ったところがある。

 第一の講演では、もっぱら地震のときの発火と延焼に対する備えを説き、第二と第三では、地震の予知を研究するための研究所の設立構想について話し(註:今村明恒らの尽力によって、その後一九二五年に、今村が提案した予算の七分の一の規模ではあったが、後に東京大学地震研究所になる研究所が帝大に設立された)、第四では、地震のときの火災に対する市民の訓練を促した。

 以下に、それぞれの講演の内容を概説する。(中略)

●【地震に伴う火災に対しての市民の訓練】

 いままでの大地震での統計では、木造家屋では、平均十一軒の倒壊ごとに一人が亡くなっている。その死者の多くは、梁桁のような大きな横木が落ちてきて落命する例が多い。それ以外は、家の下敷きになっても助かった例が多い。

 それゆえ、室内にいたときは丈夫な家具などに身を寄せることで助かる可能性か高く、家が潰れたあとに、自分で屋根を破って外へ脱出することが出来ることも多い。(中略)

 しかし大地震に火災が伴うと、犠牲者の数は跳ね上がる。倒壊や焼失した家屋三、四軒に一人の死者が出ているからである。

 また、それ以上に、燃えてしまうことによって家屋や財産の被害は急増してしまう。

 家が潰れても火災さえなければ、瀬戸物などが壊れるだけですみ、家を修理、再建するための建築材料は、ほとんど残っているから、復興にそれほどの費用はかからない。(註:「木と紙で出来ている」と揶揄されていた木造在来工法の日本家屋も、今村からはこのように見える。)(中略)

 地震後の大火災のために、人命と財産の被害が二〇倍以上にもなってしまうのである。このため、自分は声を大にして言いたい。大地震は、それほど恐れることはない。しかし、恐れるべきものは地震に伴う火災なのだ、と。(中略)

 講演を終えて、ただちに帰京するために大阪駅に行き、帰途についたが、京都まで行くと、なんと昨日来の暴風雨のために東海道線が不通になったという。

 ともかくも名古屋までは通じているというので、そこまで行くことにした。


一九二三年十月一一日(木曜)

 名古屋に着いてみると、東京行きの客は中央線に乗り換えよ、とのこと。乗り換えたまま列車は発車しなかったが、夜明けにようやく出発した。

 しかし(註:長野県)塩尻へ着いてみると、東京へ行く中央線も不通になってしまったという。今晩中に東京へ帰れる汽車がないことが分かった。

 それで篠の井から長野市へまわり、測候所へ行って地震の調査資料を集め、その後、長野県の本間知事を訪ねて、旧交を温めた。長野県は東京地区への援助を迅速に行ったという。

 混雑している夜行の汽車に乗り、信越線経由で、ようやく翌朝に帰京した。


一九二三年十月一二日(金曜)

 東京の市街地で揺れ方の違いを知るために余震の同時観測が始まっている。大阪へ出発した九日には最初の地震計を(註:江東区)越中島の航空研究所に、二台目を(註:台東区)浅草の象潟警察署に設置してあった。それぞれがちゃんと動いているのを確認した。

 そのほかの候補地を探すために、警視庁などをまわった。


一九二三年十月一三日(土曜)

 招かれて東宮職に出頭して、依頼されていた天皇へのご進講についてのいろいろな注意を、珍田太夫から聞いた。


一九二三年十月一四日(日曜)

 昨日、田丸、寺田寅彦両博士と鎌倉と小田原に行く約束をしてあった日である。それは地震の揺れの加速度を算定するための資料を得る調査だった。私も勉強のためについていくことにしてあったのである。

 しかし、危ういところであった。じつは帝国学士院で講演をする約束があったのだ。鎌倉と小田原に出かけようという寸前に家人に注意されて気がついた。大失策をするところであった。

 学士院で、日本を代表する学者たちに、私のような未熟者が講演を頼まれるのはたいへん光栄なことだった。しかも出席者はいつもよりもずっと多い。講演は午前に二時間、午後も一時間半という大講演になった。


一九二三年十月一五日(月曜)

 午前一〇時から正味一時間半、赤坂離宮で天皇にご進講をした。(後略)


一九二三年十月一六日(火曜)

 本職である陸軍士官学校の用事のために、まとまった地震の調査や研究はできなかった。(註:今村は無給で帝大地震学教室に勤めていた一八九六年から、陸軍教授として陸地測量部で数学を教えて生計を立てていた。)


一九二三年十月一七日(水曜)

 余震を観測するために地震計を設置してあった越中島の航空試験所に行き(註:一二日の日記では「研究所」とあって、その方が正しい)、それまで室内に設置してあった地震計を、研究所の庭に地震計台を作って移設した。(後略)


一九二三年十月一八日(木曜)

 東京帝大の工学部の教職員に地震の講演をした。(後略)


一九二三年十月一九日(金曜)

 交詢社(註:明治初期、まだ「社交」という言葉が十分に使われていなかった時代に、福沢諭吉が主唱して銀座に作った日本最古の社交機関。また公益事業を目的とした財団法人)で講演をした。

 九月下旬までは、各種の雑誌から原稿依頼が殺到して忙しかったが、このところ講演依頼が増えてきた。調査や研究が妨げられて困る。


一九二三年十月二〇日(土曜)

(註:台東区浅草の)象潟での余震観測を引き払い、新吉原の焼け跡に地震計を移し、航空研究所の地震計を永代橋の近くの(註:江東区)深川小松町に移した。(註:地震計の数が限られているために、このように使い廻した)。

 いままでの二カ所の地震観測から、震動の周期によって震幅が非常に違うことが分かった。一秒に二、三回揺れる周期では震幅は同じようでも、もっと長い、一秒以上の周期では弱い地盤のところで大きく揺れる。

 昼には地下鉄道会社に行って地震の講演をした。また同社で調査した市内各所での掘削試験の結果を見せてもらった。とても綿密で貴重な資料を得ていたので、後日、データをくれるよう、依頼した。(註:東京の地下鉄史は、一九二七年に東京地下鉄道株式会社が、浅草駅〜上野駅間(現在の銀座線の一部)を開業したことによって始まった。それゆえ、このときはまだ開業前で、資料とは工事のためのボーリングのデータのことであったろう)

 ここでの講演で私が力説したのは次のようなことだった。(後略)


一九二三年十月二一日(日曜)

 朝、第五高等女学校(註:一九一九年に創立された東京府立第五高等女學校。いまの都立冨士高校)で講演をした。

 その後、ハワイ火山観測所長のジャガー博士夫妻が地震学教室を来訪された。(中略)

 午後六時から秩父宮御殿で正味二時間の講演を、皇族十殿下に行った。あとで各殿下から四十分ほどの質問があり、さらにその後、秩父宮、高松宮両殿下に一時間ほどのお相手を申し上げた。(註・つまり夜半まで続いたことになる)。(後略)


一九二三年十月二二日(月曜)

 黒坂助手を伴って汽車で東京駅から国府津、小田原へ調査に行った。地震のときの揺れ方と被害状況を精査するためである。(中略)国府津を切り上げて小田原に行き、まず警察署に行って箱根から真鶴、吉浜まで及ぶ管内の被害状況を聞いたあと、閑院宮別邸を拝観した。

 この別邸は小田原城に接した東西方向に細長い小さな丘の上にあって揺れやすい地形だった。御殿の構造は木骨コンクリートの三階建てで鉄筋は入っていないようだった。その上、三階の上にさらに八角形の塔が建てられていた。地震のためにこの塔と三階建てが崩壊し、多くの宮様が下敷きになり、姫宮殿下が犠牲になられたのはまことにお痛ましいことであった。(中略)

 この夜は箱根湯本に泊まった。


一九二三年十月二三日(火曜)

 午前七時に湯本を発って、昔の箱根越えの山道を経て宮の下に出た。新道も電車の線路も地震による山崩れでどこにあったか分からないほど消えていたからである。

 温泉そのものへの被害は少なかったようだが、温泉旅館は崖崩れや山崩れで大きな被害を受けていた。なかでも底倉の蔦屋がいちばんひどかった。建物の両端部分が僅かに残っているだけで中央部分がすべて谷底へ崩れ落ちてしまったのである。私はかつてこの蔦屋にたびたび泊まったことがあるだけに感無量であった。

 宮の下からは自動車を飛ばして芦の湯を経て昼前に箱根へ着いた。箱根宿は本陣をはじめ無惨な壊れ方をしていて、出来たばかりの箱根ホテルもひどく壊れてしまっていた。しかし宮の下も箱根も地震の揺れそのものは小田原あたりと比較すれば小さかったようだが、山や崖が崩れたための被害が大きかったのである。

 正午に箱根を車で出発して鞍掛を越え日金に出て、四時頃熱海に着いた。ただちに警察の分署に行って管内の被害状況を聴取した。その後署長の案内で津波の調査をし、また熱海にあって観光名物にもなっている間欠泉の復活状況も視察した。(後略)


一九二三年十月二四日(水曜)

 あいにくと早朝から雨になった。これでは地震で海に墜落してしまった県道の真鶴以北は到底行けない。このため(註:東海道線の汽車が海中に転落した)根府川の山津波を海から船で観察することにして九時に熱海を出港した。

 なるほど山津波というしかないほどの被害である。一里(註:四キロメートル)あまり上の渓谷から崩落してきた土砂がまるで夕立のあとで谷水が渓谷を駆け下りるように下ってきて、地震後僅か十数分の間に両岸の人家を埋め、海まで落下して海中に赤黒い土の洲を作っている。このすさまじい土砂崩れでは村全体が流されてしまって何も残っていないというのも無理はない。(中略)

午後二時半に小田原を出発、帰京の途についた。


一九二三年十月二五日(木曜)

 震災予防調査会の特別委員会が開かれた。中村左衛門太郎博士(註:中央気象台の地震学者。翌一九二四年から東北帝大の地震学の教授。都内で被災して都内大崎の仮住まいで暮らしていた)に震災後、初めて会えた。(後略)


一九二三年十月二六日(金曜)

 三浦半島の調査に行くつもりだったが、帝大理学部の教授会の開催準備のため、足止めを食ってしまって、行けなくなった。


一九二三年十月二七日(土曜)

 今日は地震学教室にとって大切な教授会の日であった。準備と出席のために外出をやめた。(註:なにが、どう大事だったかは不明である。しかし大森房吉教授の代理であった今村明恒は、それなりの重責を負っていたに違いない。ちなみに、寺田寅彦は、この種の会合をさぼるので有名であった)。


一九二三年十月二八日(日曜)

 深川や浅草での余震観測の記録と本郷の大学での地震記録を比べて解析した。震動の周期が〇・五秒とか〇・七秒の短周期では振幅は違わないのに、たとえば一・三秒から三秒と言った遅い周期では、地盤の弱いところでは振幅が二〜三倍、あるいはそれ以上になっていることが分かった。(註:これが建物の被害を大きくした原因である。)(中略)

 昼は茗渓会(註:東京師範学校、のちの東京教育大学の卒業生の会。いまでも文京区茗荷谷に茗渓会館がある)で講演をした。

 また夜は久邇宮邸に伺った。宮廷では(名前は略)など十名ほどがご参列で、その御前で地震に関しての講演を二時間ほど申し上げた。(後略)


一九二三年十月二九日(月曜)

 この日、震災予防調査会の委員会が開かれた、午後二時から九時までかかったが、極めて有益な会合だった。(後略)


一九二三年十月三〇日(火曜)

(註:映画製作会社)日活の好意によって、牛込館で震災についての活動写真(註:映画)を見学した。昨日の震災予防調査会に出席した委員のほとんど全員や、地震後の調査に従事した嘱託や学生諸君も一緒に見た。

 一般公開はしていない映像で、私たちも新しい知見を得た。

 午後は海軍省で地震について講演を行った。


一九二三年十月三一日(水曜)

 大森房吉先生に勲章をさし上げるための調査を命じられた。先生の調査報告と論文は和文が一〇三篇、欧文が一〇九篇の多数に上っていた。(中略)博士の海外出張は一〇回、うち六回は地震の国際会議で四回は海外の大地震調査であった。

 インドでは酷暑の気候に遭い、サンフランシスコ(註:一九〇四年のサンフランシスコ大地震)では反日暴徒に襲われて頭部に怪我をされ、イタリアのメッシーナでは最愛の夫人を失われただけではなくて、現地を去る前夜には盗賊に現金を盗まれた。

 震災の被災地は盗賊や殺人犯の名所でもある。博士はこれらの困苦を凌いで権威ある調査論文を作られた。

 いま、このような学界の偉人をもっとも必要としている時期に先生の論功をこうして調査してリストアップしなければならないとは、なんと悲しいことだろう。(註:帰国途中に船上で発病して以来、大森房吉は帝大病院の病床に伏せたままで、もう長くないということで、このような論功の調査が今村明恒に命じられた。

 今回の大地震、大火災は大損失を生じてしまった。そして、いまここに同じように悲しい調査を重ねることで、私の日記を閉じたいと思う。

(註:大森房吉はその後、十一月一八日に亡くなった)


【出典】

●今村明恒『地震講話』岩波書店、1924年、291頁、定価2円。(註:八月樽前噴火〜一〇月三一日まで。字が大きい。『科学知識』掲載のものに加筆・訂正をしてある部分がある)。一三五〜二九一頁

●今村明恒『地震の征服』南郊社、1926年、392頁、定価3円20銭。地震当日〜九月四日まで。(註:字が小さい。発病した大森房吉が帰国した十月四日だけは別に記述がある)。四四〜五一頁。来歴も。

●科学知識普及会『科学知識・震災号』科学知識普及会、1923年、96頁、60銭。八月樽前噴火〜九月三〇日まで。九七二(一二)〜九九七(三一)頁。(註:ルビつき)。

●科学知識普及会『科学知識・震災踏査号』科学知識普及会、1923年、112頁、60銭。一〇月一日〜一〇月末まで。一一三二(七六)〜一一五一(九五)頁。(註:ルビつき)

註:つまりいろいろな本に日記を重複して載せている。期間的には、印刷されたもの全部で「八月の樽前噴火〜地震当日〜一〇月三一日まで」である。


「地震予知の語り部・今村明恒の悲劇」へ
「ハイチの大地震は、地震学者にとってはデジャビュ(既視感 deja vu)なのです」へ
「地震学者が大地震に遭ったとき-----今村明恒の関東大震災当日の日記から」
島村英紀の「大正期出版センセーショナリズム学」へ
続編である「その2:震災直後、書籍以外の商品を広告するときのセンセーショナリズム」はこちら


【参考:島村英紀、今までの『波灯』寄稿】
■:世界でいちばん人口が減った島 『波灯』第20号(2007年6月発行)、連載その10{400字で約50枚}
■:ウサギの言い分 『波灯』第19号(2006年5月発行)、連載その9{400字で約35枚}
■:世界でいちばんたくましい国 『波灯』第17号(2004年5月発行)、連載その8{400字で約35枚}
■:世界でいちばん雨が多い国 『波灯』第16号(2003年5月発行)、連載その7{400字で約33枚}
■:世界でいちばん危ない国 『波灯』第14号(2001年5月30日発行)、92-114頁、連載その6{400百字で約62枚}
■:世界でいちばんケチな国 『波灯』第8号(1995年6月10日発行)、16-24頁、連載その5{400字で約23枚}
■:流浪の科学者 『波灯』第7号(1994年5月20日発行)、13-19頁、連載その4{400字で約19枚}
■:世界でいちばん楽天的な国 『波灯』第6号(1993年5月10日発行)、100-112頁、連載その3{400字で約35枚}
■:世界でいちばん過疎の国 『波灯』第5号(1992年4月発行)、24-32頁、連載その2{400字で25枚}
■:オトギの国で過ごした夏 『波灯』第4号(1991年4月発行)、172-181頁、連載その1{400字で25枚}

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