地震学者が大地震に遭ったとき-----今村明恒の関東大震災当日の日記から
島村 英紀
『青淵』 (
渋沢栄一記念財団) 2010年5月号、36-38頁



1:解説

 日本史上最大の被害を生んだ関東地震(1923(大正12)年9月1日)はマグニチュード7.9。相模湾から神奈川県南部、そして房総半島までの広い範囲の地下を震源とした大地震だった。いわば、海溝型の巨大地震が首都圏直下を襲ったのである。

 地震の犠牲者は10万人以上。その大半は焼死者で、なかでも被服廠跡(今の墨田区横網)では、周囲から避難してきた3万8千人もが焼死する惨事が起きた。

 地震学者今村明恒は、その18年も前に、この地震が起きる可能性があること、そして備えをしておかないと大火が起きて大被害を生むことを警告していた。しかし彼の予言は根拠がない浮説で世を惑わすだけという強い非難を、世間からも学界からも受けて、彼の警告は無視されていた。

 だが地震は起きた。53歳の今村は地震後、1日の休みもなく精力的に動き回り、各地の被害調査や防災への提言を行った。また彼は(少なくとも記録が公刊されている10月31日まで)毎日、長文の日記をつけていた。その総量は新書版1冊分を優に超える。ここではその一部、地震当日の分を島村英紀が現代の地震学から意訳・現代語訳した。

 なお、当時83歳だった渋沢栄一は後藤新平などともに帝都復興審議会の委員として、また震災後の復興のために「大震災善後会」副会長として寄付金集めなどに奔走した。


2:現代語訳・今村明恒の日記

 その日の朝、私は文京区本郷にある東京帝国大学の地震学教室に出勤していた。

 正午から1分16秒前のことだった。あの大地震が襲ってきたのだ。

 最初は、それほど大きな地震だとは思わなかった。いつも地震のときにはそうするように、座ったまま初期微動の継続時間を数えた。

 主要動が来るまで12秒だった。(註・震源までの距離は、この継続時間に8を掛けて得られる。つまり約100キロになる。東京帝大・東大の実験物理学者は伝統的に1秒を4拍で数えて正確な秒数を計れる修練を積んでいる。私も学生時代にこの方法を習った)

 そのうちに主要動が来て、地震学教室の屋根の瓦が次々に落ち始めた。しかも私の予想を次々に裏切って、建物の揺れはさらに激しくなっていった。建物はあちこちできしみ、屋根の瓦が飛び散って、耳を聾するばかりの騒音が満ち満ちていた。

 他の地震とは違って、揺れが最大を記録した後も大船に揺られているようなゆっくりした揺れが一向に収まらず、揺れの周期だけが延びたような感じであった。

 そのゆっくりした大揺れが収まらないうちに、早くも大きな余震が起きて大きくて早い揺れが襲ってきて肝を冷やした。

 やがて揺れもようやく小さくなった。私は教室員たちに地震計の点検を命じた。私がまずやったのは、地震計の記録紙を記録ドラムから取り外して持ってこさせ、その記録を読みとって解析を始めることだった。

 地震計の記録紙を見た瞬間、これは私が想像していた地震だと直感した。地震の初動の方向と主要動までの到着時間差が明瞭にそれを裏付けていた。かつて私は日本の外側大地震群の中で相模湾の部分が、大地震を起こす能力があるのに大地震の記録がないゆえ、将来大地震が起きる可能性を発表した。

 じつはこの私の発表(註・1905年の雑誌『太陽』への発表と、その後の新聞のセンセーショナルな後追い)は、それ以来20年近くにわたって私に茨の道を歩かせたものだ。

 ありもしない大地震の予測で世の中を騒がせたという報道や世の非難ゆえに、今はなき故郷の鹿児島の父にも多大の心配をかけた。

 大地震から30分ほど経っていた。早くも20人ほどの新聞記者たちが駆けつけて来ていた。うち2人は外国人記者だった。

 私は次のように発表した。「本郷での発震時(註・地震計が記録した日時)は午前11時58分44秒、震源は東京の南方26里、つまり伊豆大島付近の海底と推測される。本郷では振幅が4寸にも達する振動だったから、東京では安政江戸地震(註・1855年。江戸に大被害をもたらした直下型地震)以来の大地震になる。今後、多少の余震活動は続くが、大地震が繰り返すことはない」

 記録紙を読み取り記者発表も終えたので、大学の内外の様子を見ようと大学前の本郷通に向かった。途中、法文学部の屋根が崩壊し、工学部の応用化学教室が燃えていた。

 正門から本郷通に出ると、通りの大学側は、反対側に広がる民家から飛び出してきた人々で埋まっていた。商店の屋根瓦はほとんど落ち、土壁の多くも崩れていた。遠く南のお茶の水方向には火の手が上がっていた。

 これは容易ならざる事態が起きたということを実感した。折悪しく風も強まってきていた。かつて私が警鐘を鳴らしていた地震後の大火災が現実にならなければいいがと心配しながら、急いで教室に戻った。

 医化学教室から出火した火が大学図書館に燃え移ろうとしているという情報が入った。しかし私は油断していた。図書館から地震学教室までの間にある建物や大講堂はいずれも煉瓦建築で耐火性があるから自然に鎮火するに違いないと高をくくっていたのだ。だが事態は刻一刻、悪化していった。

 火の手が教室にも迫ってきた。そこで教室の職工や小使いたちを屋根に登らせ、飛んでくる火の粉を防がせた。また、中では教室員を指揮して、もっとも重要な地震計の過去の記録など、貴重な資料を外へ運び出させた。

 図書館で煙が見えてから約1時間後には、火は教室の隣の数学教室にまで燃え広がってきていた。教室も風前の灯火だ。しかも地震のために屋根瓦が落ちてしまって、瓦を載せる木材が露出してしまっている。延焼しやすい木が火の粉に曝されているのである。

 教室の屋根も3回にわたって燃え上がった。水道は地震で配管が壊れて一滴も出ない。

 しかし職工たちは勇敢だった。屋根の火を踏みつけて消し、燃えている部材は剥がして屋根から落とし、消火に努めてくれた。

 その後、幸い風向きが変わってくれた。教室は窮地を脱することができた。

 教室はひとまずの危機は脱したので、大学のまわりを見渡せる工学部の屋上に登った。

 凄惨な光景が広がっていた。東にある上野の山を越えた彼方から、南にある麹町、さらに西にある新宿方面まで真っ赤な火の手と煙が入道雲のようにわきあがっていた。(この入道雲が火災旋風が作った積雲であったことを後に同僚の寺田寅彦博士に聞いた)。

 立ち上っている煙は二十数条にもなっていた。中には二重三重になっているものもあろうから、もっと多いに違いない。

 その後、風は一層強くなった。私の警告は、学術的な根拠のない浮説、とか治安を妨害する憶説とかいって非難され嘲られ続けたが、ああ、これでは、かねて私が警告していた東京の大震災が現実になってしまう。なんという不幸なことであろう。

 こうして、ようやく一段落してみると、改めて腹が減っているのに気がついた。考えてみれば朝飯以後はなにも食べていなかったのだ。夜10時を過ぎていた。遠くに住む教室員をまず帰宅させ、家の心配がない独身教室員などで徹夜の地震観測をしてもらうことにして、私は午後11時頃、大学の門を出た。

 しかし本郷南方に火の手が広がっていたから、いつもの通り道ではなく、はるかに迂回せざるを得なかった。東大久保(註・本郷から直線距離で約6キロ)の自宅にたどり着いたのは翌日、午前1時になっていた。

(註・今村の日記は翌日「リュックサックを背負い、凛々しく登山服を着て、早朝から地震学教室に出勤した」と続いている)


右上の写真は今村明恒と当時の三成分地震計。『科学知識・震災号』(科学知識普及会、1923年)から。右下の写真は、上野広小路の松坂屋百貨店の惨状。建物はすべて崩れ落ちたり焼け落ちたりして、わずかに、正面玄関の門扉だけが残っている。『大正震災志写真帖』(内務省社会局、1926年)から。なお、これらの写真は『青淵』には載せていません。

【2015年5月に追記】 以下の公開模試(国語)にこの本からの文章が使われました:駿河台学園駿台予備学校。


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