建築の雑誌『施工』(彰国社)

シリーズ連載「地震学の冒険」2000年3月号

その30:地震学の社会的貢献(最終回)

 神戸市を見おろす高台にある神戸大学の構内には、阪神淡路大震災(1995年)で犠牲になった同大学の学生の慰霊碑が建っている。そこには39名の名前が刻まれていて、なかには外国人留学生の名前もある。

 阪神淡路大震災の犠牲者は神戸大学の学生に限らず、全体では6400人を超える。また、家や職を失うなど、被災した人数ははるかに多い。私たち地震学者にとって、阪神淡路大震災は心の中の重い澱(おり)になっている。しかしここでは、敢えてこの39名の犠牲者について考えてみたい。

 この地震は午前5時46分に起きた。新幹線が走り出す直前だったから、新幹線の橋桁が落ちたのに大事故になることはなかったのは不幸中の幸いだった。

 しかし、もしこの地震が昼間に起きていたら、新幹線や高速道路では大事故が起きていたかも知れないが、一方で、神戸大学の学生たちは死なずにすんだかもしれない。というのは、神戸大学には倒壊した建物はなかったからだ。

 この39名の学生のうち37名は、下宿が潰れて死んだ。自宅から通っていた学生に比べて、下宿生のほうがはるかに犠牲者が多かったわけだ。気の毒なことに、この下宿生たちは自宅生たちよりも、また神戸大学よりも弱い建物に暮らしていたのである。

 連載の23回目(1999年1月号)で福井地震(1948年)のことを書いた。この地震は、大被害を生んだ内陸直下型地震としては、阪神淡路大震災より一回前の大地震だった。この地震では約4000人もの犠牲者が出た。福井市とそのまわりにある平野部では80%以上の家が倒れた。家全部が倒れた市町村さえいくつもあった。

 また中国で起きた唐山地震(1976年)のときにも、まるで戦災に遭ったように、すべての家が倒壊して、瓦礫の山になった。この地震では公式統計でも24万人もの犠牲者を生んだ。唐山市では97%もの家が崩壊した。

 いま私の研究所に客員教授として滞在している中国人地震学者がいる。彼は、この唐山地震の被害直後に唐山地震を訪れているばかりではなくて、阪神淡路大震災の直後にも中国人科学者の訪日団の一員として神戸や淡路島を視察している。唐山では地震後に外国人の立入りが何年間も禁止されたから、彼は両方の大地震の生々しい現場に立ち会った数少ない地震学者なのである。

 阪神淡路大震災を見た彼の第一印象は、痛々しい大変な被害だ、しかし、唐山地震と違って、一面に家が壊れているのではなくて、瓦礫の山になってしまった家と、ちゃんと残っている家とが混在している、というものだった。

 日本の家は地震に対してずっと強くなってきている。しかし残念なことに、阪神淡路大震災では、古いままの木造の家が潰れて亡くなった方が多い。統計によれば、死者の8割以上がこういった老朽木造家屋の下敷きになったものだ。

 唐山地震の場合には木造家屋ではなかった。しかし煉瓦や石造りの中国の一般住宅や商店は、地震にはきわめて弱い造りなのだ。これらの家がもし日本の近頃の家のような強さを持っていたら、唐山地震の犠牲者はずっと少なかっただろう。

 阪神淡路大震災で残念なことがもうひとつある。医師の遺体検案では、死者のほとんどが地震後10分間以内の圧死だったことだ。これは阪神淡路大震災にかぎらず、昨年起きて2万人近い死者を生んでしまったトルコの大地震でも同じだった。欧米をはじめ日本など2000人もの国際救助隊がトルコに急派されて生存者の救出にあたったが、救出に成功したのは数十人にすぎなかった。

 つまり、いったん大地震が起きて家が潰れてしまったら、国際救助隊が来ても自衛隊が出ても、救える人命はごく限られてしまうのである。

 歴史に「もし」はない。しかし、学生下宿のような老朽木造家屋が、もし、もっと新しい家に建て替えられていたり、耐震の補強がされていたら、阪神淡路大震災の犠牲者は1/5以下になった可能性があった。古い家に住み続けなければならなかった人々が選択的に犠牲になったのであった。

 関東大震災(1923年)を起こした関東地震の一回前に当時の江戸を襲った大地震である安政大地震(1855年)のときには、庶民にまだ余裕があった。当時の鯰絵(ナマズ絵)、『安政地震漫画』によれば、地震ナマズが金持ちの首を締め上げているところが描かれている。土蔵や邸宅が潰れて、持てる者が失い、一方で持たざる庶民の失うもののない強さが痛烈な皮肉として描かれていた。しかし、現代の地震は、弱き者により多くの犠牲を強いるのである。

 じつは、老朽木造家屋だけではない。地震に耐えられそうもない古い構造物はほかにもいろいろある。たとえば、宅地造成地、鉄道や道路の盛土、堤防、ブロック塀といったものだ。これらのなかでも、昔に作られたものほど、地震に弱い可能性がある。

 前回で、地震予知は昔考えられていたよりも、つまり研究が目標としていたものよりもむつかしいことが分かった、と書いた。残念ながら、現在の地震学あるいは近未来の地震学では、大地震がいつ来るかを予知することは難しい。

 しかし、究極の地震予知ができなくても、地震学は、それなりに貢献できるはずだ。

 たとえば、日本や世界の、どこに、どのくらいの大きさの地震が起きるか、ということは随分わかってきている。これは、なぜ、そこにそのような地震が起きるかという研究が進んだせいである。

 それぞれの場所にはどんな地震が起きるかがわかれば、それに応じて「備える」ことが出来るはずだ。幸い、最近の建物が、ある市で全部倒壊するような途方もなく強い揺れはない。あるいは、地球がまっぷたつに割れてしまうような巨大地震もないことがわかっている。

 一方で、ある地震が起きたときに、その近くでそれぞれの場所がどんな揺れかたをするかも計算できるようになってきている。これには、震源から出ていく地震の波の指向性と、地盤の特性の両方が関係している。

 前に書いたように、福井地震のときの不幸は、福井市とその周辺の市町村が載っている堆積盆地が振動を増幅したことだった。つまり軟らかい地盤では震度が大きくなる。

 阪神淡路大震災のときにも、とくに神戸では、地震の波が進むときに屈折したり反射したりして、振幅が増幅されたところがある。最近は、地盤の性質から、その場所での地震の揺れを計算できるようになった。つまり、家や建造物を作るときには、その場所で考えられる揺れに応じて作ることが求められているのである。

 震源から出ていく波の特性についても、いろいろなことがわかってきている。たとえば、南海地震(1946年)は紀伊半島から高知沖にかけての海底で起きたプレート潜り込み型のプレート境界地震だった。しかし、この地震はフィリピン海プレートという海洋プレートが日本列島が載っているユ−ラシアプレ−トの下に単純に潜り込んだわけではなかった。

 この地震の震源は東西ふたつに分かれていて、東半分は強い地震波を出して多くの建物を倒壊させたが、一方西半分は、ごくゆっくりした揺れの地震波しか出さなかった。つまり、西半分の震源は、震災は生まず、津波だけ生んだことが最近わかった。これは大地震が出演する「舞台」の違いらしい。

 地震学者は、道は遠いとはいえ、もちろん地震予知の研究を諦めたわけではない。たとえば、三陸の釜石沖ではマグニチュード6弱の中地震が、5.8プラスマイナス0.3年という、比較的正確な周期でこの4回ほど繰り返して起きている。こういうところでは、地震予知は取り組みやすいかも知れない。

 最初は2年の約束だったこの連載も4年になったが、今回が最終回になった。私たち地震学者は地震の研究を続けていくつもりだし、その結果の社会還元にも努めるべきだろう。また、別の機会に地震学者としての発信を続けたいと思う。

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